モスクワ都心に核シェルターがあった!

キリル・ラグーツコ撮影

キリル・ラグーツコ撮影

冷戦ミュージアム=キリル・ラグーツコ撮影

一見したところ、これは、モスクワ中心部のコテーリニチェスキー横町にある2階建ての普通のアパートだ。知らない人には信じられないだろうが、この建物の扉も窓も、本物ではない。煉瓦づくりの2階建ての向こうには、高さ9メートル、厚さ6メートルの鉄製キューポラ(円蓋)が隠れている…。

唯一の機密解除された核シェルター 

経験からすれば、核シェルターで一番もろいところは入口だ。まさにそのため、この特殊施設は、放射能のチリひとつ入り込めないように設計されていた。放射能だけでなく、強力な波状攻撃も、光線も怖れる必要がないように。重さがそれぞれ2トンある特製扉も、その目的のためだ。シェルターは、地下65メートルの深さにあるが、高さは18階建てのビルと同じ。

冷戦時代に、第3次世界大戦に備えて、周到に準備された。当時、核シェルターは、旧ソ連領内に約1000個建設された。

モスクワのタガンカ地区にある、この「シェルター42」は、機密解除されて冷戦ミュージアムになった唯一の核シェルターだ。

このシェルターは、40年間、特殊施設だったが、建設が開始されたのは、まだスターリンが生きていた1951年。完成したのはスターリンの死後で、1956年だった。

軍人用トイレと勘違い 

ミュージアムを訪れる来館者を最初に驚かすのは、シェルターがいかに高度にカムフラージュされていたかということだ。実際、普通の家の土台の下の7000㎡のスペースに長距離航空隊を統率する司令所があることなど、誰ひとり思いもよらなかった。

「気づけるはずもなかった。すべて、本物の生活だと錯覚されるように作られていた。ここは毎晩明りが灯され、朝には消された」と、冷戦ミュージアムの案内人アレクセイ・アレクサンドロフ氏は言う。

特殊施設は、24時間体制で機能していた。電信技手、電話交換手、無線通信士、暗号係など600人が、毎日、交代勤務していた。

この建物に、それだけの人間を一度に出入りさせることができるとは考えられなかった。だから、軍服姿の人間を、一定の時間間隔で3人ずつ建物に入れた。同じやり方で、非番になった人間が、シェルターから出て行った。コテーリニチェスキー横町に住む人たちは、建物に入る人たちは、ただトイレに行くだけだと、信じきっていた。軍人たち自身は、好奇心のつよい人の質問に対しては、ここにあるのは部門別図書館だと答えるようにとの命令をうけていた。

1か月分の食料備蓄 

一時的に特殊施設に派遣される専門家らは、目隠しをして職場に送られた。シェルターに入るのには、秘密のトンネルをくぐらなければならない。トンネルを行くと、円筒状の4つのユニットに着く。その一つ一つに、それぞれの役割があった。

「第4ユニットは司令部。そのとなりの第1ユニットには、電話交換手、電信技手、暗号係、無線通信士ほかの専門家。第2ユニットには遠距離通信機器があり、第3ユニットには、特殊施設で生きのびるのに必要なすべてのものがあった」とアレクセイ・アレクサンドロフ氏は解説する。

ここにはディーゼル自家発電機や換気装置があり、2基の掘削井戸さえある。シェルターの食料備蓄は、1ヶ月の自給生活に足りる。

こうしたすべてについて見学者に話してくれるのは、ミュージアムの職員たち。だが職員らは、話すだけでなく、これを見せてくれる。

核戦争の恐怖は過去の遺物?… 

映写ホールでは、見学者グループに向けて「冷戦」というドキュメンタリー映画が上映される。これは、米ソ対立の時代について、軍拡競争について、国際緊張についての映画だ。スクリーンには、ヒロシマ、ナガサキの原爆、フルトンで演説するチャーチル首相、クルチャトフ市、セミパラチンスク実験場、中距離ミサイル・・・など、見覚えのあるニュース映画のシーンがつぎつぎに映し出される。

米軍攻撃への対抗措置としての核弾頭ミサイルの発射シミュレーションは、見学コースに欠かせない見どころの一つだ。シェルターは、数百年の使用を想定し、しかも放射能のチリひとつ、入り込めないようにと建設された。それでもここでチリを見かけることはあるが、このチリは安全だ。これはミュージアムのチリなのだから。

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