血の上の救世主教会=Lori/Legion Media撮影
1801年 ミハイロフスキー城、パーヴェル1世暗殺事件
サンクトペテルブルク中心部のもっとも不気味な城のひとつ、ミハイロフスキー城、別名インジェネールヌイ城。事件とは無関係な隠れ家のようだが、屋敷の主の殺害現場となってしまった。
掘、稜堡、護衛などは役に立たなかった。見張りがクーデターに加わったのだ。クーデターの主な原因について、暗殺者は、パーヴェル1世の狂乱とロシアの運命に対する不安だと述べている。
パーヴェル1世は、貿易のお得意様の英国と敵対し、ナポレオンのフランスに接近していたが、これは貴族の収入源を直撃するものだった。
殺害するつもりはなく、統治から外そうとしていただけだった、という説もあるが、あのパーヴェル1世があっさり引退に応じるはずもなかった。
パーヴェル1世はカーテンの後ろに隠れていたが、発見された。ニコライ・ズーボフが金色のタバコ入れで最初の一撃をパーヴェル1世に加えたらしい。一説では、こめかみ部分へのこの一撃で、パーヴェル1世が即死したと言われているが、何度も殴った後で最後にシルクのマフラーで絞殺したという人もいる。公表された内容は、皇帝は「脳出血で死亡した」というものだった。これは、ロシアの皇帝が暗殺されたときのお決まりの「病名」だった。
パーヴェル1世は、自分が建てさせたミハイロフスキー城で40日しか生活できなかった。最後の数日間、パーヴェル1世は鏡をのぞくと、首に縄がかかった絞殺された自分が映っているように錯覚したり、突然呼吸困難に陥ったりしていたという。
パーヴェル1世の死後、息子のアレクサンドルが即位し、再び親英、反仏政策をとるようになった。彼が父の暗殺計画を事前に知っていたことは確実で、資料で裏付けられている。
1881年 血の上の救世主教会、アレクサンドル2世暗殺事件
「血の上の救世主教会」の、聖ワシリイ大聖堂に似せたロシア様式の美しい外観は、悲しい事件と対照をなしている。この教会は、アレクサンドル2世を弔うために建設された。
アレクサンドル2世は、1861年の農奴解放令で農奴を解放したことで、解放者と正式に呼ばれるようになった。
しかし、この農奴解放は、実は、地主貴族にとっても農民にとっても、かなり苦しいものだった。
地主貴族は、ごく大ざっぱに言って、半分の領地と引き換えに、借金をちゃらにしてもらったのだが、全国の鉄道の敷設、工業化など近代化の波が押し寄せ、農村が全般的に貧困化していくなかで、大半が没落していった。
農民にとっても解放令は裸で放り出されたにひとしかった。詩人ネクラーソフの『ロシアはだれに住みよいか』は、解放令後の荒涼たる農村を描いたものだ。
社会の不満は高まり、アレクサンドル2世の暗殺をたくらむ者が現われ、散歩中に射殺しようとしたり、その冬宮を爆破したり、汽車を爆破しようとしたりと、何度も未遂事件を起こした。
3月13日、アレクサンドル2世が冬宮に戻り、サンクトペテルブルク市内を走っていた時、最初の爆発が起こったが、馬車しか被害を受けなかった。彼が馬車から降り、犯人のニコライ・ルサコフに尋問していたときに、イグナチイ・グリネヴィツキーが2個目の爆弾をアレクサンドル2世の足下に投下した。
致命的なケガを負ったこの場所の柵と丸石の舗装道路の一部は、教会の中に保存されている。
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1916年 ユスポフ宮殿、ラスプーチン暗殺事件
サンクトペテルブルクでもっとも「人気」のある事件は、1916年12月17日、モイカ川沿いにたたずむ、コの字型の古く美しいフェリックス・ユスポフの住む宮殿で起きた。ユスポフは、ロシア革命後、亡命し、自分がラスプーチンを殺した経緯を事細かく回想に書いている。
皇帝ニコライ二世夫妻は、皇太子アレクセイの血友病をラスプーチンに治療してもらって以来、その強力な影響下にあり、とくに皇后アレクサンドラはこの“怪僧”と愛人関係にあり、敵国ドイツと通じて単独講和を図っているとのうわさが広まっていた。その真偽は、今日にいたるまで明らかでないが、皇帝一家の権威が地に落ちたことは確かだ。
ユスポフの回想によると、彼は、フェリックスの美貌の妻と会わせることを口実に、ラスプーチンをユスポフ家におびき寄せて、青酸カリ入りのナッツケーキを食べさせ、銃弾を数十発撃ち込んだ。不死身のラスプーチンは、それでも逃げ回り、柵を飛び越えたが、最後につかまり、カメンヌイ島のマーラヤ・ネヴァ川に投げ込まれ、溺死した―。
いくら怪僧でも出来すぎのようだ。作家エドワード・ラジンスキーは、新資料と緻密な考証にもとづき、異説を発表している(「真説ラスプーチン」沼野充義、望月哲男訳)。
遺体は、橋についていた血の跡で、すぐに発見され、潜水夫が氷の下から引き上げた。防腐処置を施された遺体は、ツァルスコエ村のサラフィム・サロフスキー教会と同じ敷地内にある、閉鎖されたアレクサンドロフスキー公園に密かに埋葬されたが、1年後には革命兵士がそれを見つけ、最後には技術大学の蒸気ボイラーで火葬され、遺灰がまかれた。
ユスポフ宮殿では、「ラスプーチン、作り話と現実」展が開催され、改装されたホールでは、コンサートや舞踏会が開かれており、燕尾服やクリノリン入りのドレスを着て貴族の気分を味わうこともできる。
1918年 宮殿広場参謀本部、ウリツキー暗殺事件
1918年8月30日、宮殿広場の参謀本部の建物に入っていた内務委員会のロビーで、サンクトペテルブルクのチェーカー(秘密警察、KGBの前身)議長だったモイセイ・ウリツキーは、現場まで自転車でかけつけた若き詩人のレオニード・カンネギセルによって暗殺された。カンネギセルは、近くのミリオンナヤ通りまで走って逃げたところで拘束され、10月に死刑となった。
同じ8月30日に、レーニンも社会革命党の女性党員ファニヤ・カプランに狙撃されて重傷を負っている。
これらの事件後、ボリシェヴィキは赤色テロを宣言し、事態が悪化していった。
カンネギセルは、友人の若き士官ペレリツヴェイクをチェーカーが銃殺したことが、暗殺の理由だと述べた。
1925年 アングレテル・ホテル、詩人エセーニンの死
1925年、詩人セルゲイ・エセーニンは全集を出版しようとしていた。「ロシアでは、詩人は自分の全集を見ることなくこの世を去って行く。僕はそれを見ることができるんだ」とエセーニンは言っていた。11月末、3巻すべてが印刷所に植字にまわされた。
1925年12月28日、アングレテル・ホテルの部屋でエセーニンが遺体で発見された。部屋に残されていた最後の詩は、「さようなら、僕の友よ、さようなら」で、血で書かれていた。エセーニンはインクがないとホテルにクレームを言っていたため、血で書かなければならなかったのだ。
エセーニンはうつ病にかかっており、病院に1カ月入院した後、自殺したというのが、歴史家や詩人の伝記作家の大半の説である。しかしながら、1970年代から1980年代に、妬みあるいは合同国家保安(秘密警察)の人間による、自殺を装った殺人であるという説が現れた。
詩人は晩年、革命の現実に失望し、「僕の詩の最良の愛読者は、淫売や強盗たちだ」と自伝に書いていた。
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