アントン・チェーホフはサハリン島の流刑地で3ヶ月を過ごした=
ロシア通信サハリン島の流刑地で3ヶ月を過ごした結果精神的に疲弊しきったアントン・チェーホフは、海路でモスクワに帰還することにした。この旅でチェーホフは香港、シンガポールとスリランカに停泊したが、スリランカでの滞在を最も楽しんだようだ。
1890年、誰もが繊細な人物と認めるアントン・チェーホフは、サハリン島で3ヶ月を過ごした結果、疲弊しきってしまった。モスクワから極東ロシアまでの鉄道、馬車とフェリーによる過酷な長旅の末に、チェーホフは3ヶ月間を当時の流刑地で、居住者や囚人に対する聴き取り作業をして過ごした。「彼は自ら "地獄" と表現した場所をなるべく早く離れ、船によるより快適な手段でモスクワに帰ることを待ち遠しく思っていた」と説明するのは、ユジノサハリンスクの退職した学者、タマラ・チコワ氏だ。「彼の手紙は、サハリンでの悪い印象が旅行中彼の頭中から離れなかったことを示しているが、チェーホフはアジアの色彩や生活を目にすることができて幸せだった」
アーカイブ写真
「誰をも絶望のどん底に落としてしまいそうな貧困、無知と不品行」がその特徴だと不平を述べたチェーホフは、ウラジオストク港を後にした後、当時コレラが大流行していた日本には停泊せず、香港に向かった。チェーホフはこの都市をすぐに気に入った。彼が記述した多くの印象は、香港の湾、山々、路面電車やヴィクトリア・ピークを気に入った現代の旅行家が活気に満ちた大都市について述べそうなコメントに似ている。
「絶美の湾だ」とチェーホフは記した。この海上の交通は、写真でも未だかつて見たことがないくらい混雑していた。すばらしい道路、路面電車、鉄道が山々、博物館や植物園へとつながっている。どこに目を向けても、イギリス人の使用人に対する思いやりに満ちた憂慮が見受けられる。また、船乗りのためのクラブまである」
作家は人力車で移動した。彼はこの都市の中国人たちが粗悪な環境に住んでいることを認めたが、英国人植民者たちに対し厳しい評価をすることは拒んだ。だが同胞のロシア人に対しては、「確かに英国人は中国人、セポイやインド人を搾取しているが、同時に道路や水道を敷いたり、博物館を建てたりキリスト教を伝えたりしているではないか。それとは対照的に、君たちは何を与えたというのか?」と書いて非難した。
「シンガポールに向かう船上で、我々は2人の遺体を海葬にした」とチェーホフは記した。「帆布に包まれた遺体がなびき、海中へととんぼ返りしていく様子を目撃し、その遺体が海底に向かって何キロも沈んでいくことを思い描くと怖くなる。そして、なぜか自分も死んで海に葬られるのではないかという気分になってしまう」
チェーホフはシンガポールについてははっきりした記憶がなく、この都市の訪問中は強烈な悲壮感に包まれていたと記した。彼は、「ほとんど泣きそうになった」とつけ加えた。
歴史家でシンガポールのアジア文明博物館元従業員のムトゥ・クマール・モーハン氏は、チェーホフは当時まだ世界的に有名ではなかったため、この訪問は控えめで宣伝もされなかったと言う。 「ヨーロッパの船舶がシンガポール港に停泊し、乗客が数日間を陸上で過ごすことは日常的だったため、市のアーカイブにチェーホフの訪問に関する記録は存在しません」とモーハン氏は加える。
アントン・チェーホフが撮影したセイロンの景色=ロシア通信
次の停泊地はセイロン (現在名スリランカ) の首都コロンボだった。
「その後はセイロン、パラダイスがある場所だ」とチェーホフは記した。「ここパラダイスでは鉄道で100マイル以上を移動し、椰子の森や褐色の肌の女性をずいぶんとたくさん目にした」
スリランカの首都でよく伝えられる話は、チェーホフが短期間の滞在中に地元の女性と恋に落ちたというものだ。彼は古都カンディまで鉄道で移動したが、その際は植民地時代のセイロンでヨーロッパ人が主に利用した展望車をおそらく予約しただろう。
作家がセイロンで過ごした時のことは、弟ミハイル・チェーホフが書いた回想録に言及されている。「しかし、セイロン島では、それまでのあらゆる困難が報われた。それは地上の楽園で、魅惑的な物語の舞台設定のようだ」セイロンでのチェーホフの体験は、彼にとって特別のものだった。彼の最も有名な物語の一つには、本題から逸れてコロンボに言及する一説があるくらいだ。極東ロシアから船舶内の付属診療所で本土に送り返される2人の男たちを題材とする短編『グーセフ』では、「1890年11月24日、コロンボにて」と日付が付されている。しかし、この作品には、船上での水葬、そして海底深く深く沈んでいく遺体の印象的な場面がある…。
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