シベリア鉄道
ロシア国立図書館1890年には、効果的な官民パートナーシップのおかげで、ロシアのヨーロッパ側には3万キロ近くにも及ぶ鉄道網ができていた。
一方で、アジアからヨーロッパを分断するウラル山脈の東側では、皇帝アレクサンドル3世の保証にもかかわらず、鉄道の線路が1キロも敷設されていなかった。1886年にアレクサンドル3世は、「政府は、この豊かながらも未開の地域のニーズを満たすために、未だに何も行なっていない」と嘆いた。
モスクワと太平洋をつなぐ鉄道プロジェクトの構想は、いわば絵に描いた餅のようであった。政府の年度の歳入が2億ルーブルだった当時、サンクトペテルブルク・モスクワ線 (1851年に開通) の建設には6700万ルーブルもの資金を要したため、モスクワをウラジオストクとつなぐには3億3000万ルーブル (現在の数字に換算すると70億ドル相当) がかかるとされた。
一方で、クリミア戦争 (1853〜56年) によりロシアの財政は疲弊しきっていたため、その財源がまったくない状態だった。政府を躊躇させたもう一つの要因は、シベリア鉄道が、大小何百もの河川を横断するほぼ無人のシベリアの大地に建設されなければならないという事実だった。官僚たちは、その建設は不可能だとアレクサンドル3世に上申した。
そのため、わずか数年以内に莫大な費用に対する恐怖が克服され、この開発プロジェクトが着工されるとは誰も想像していなかった。1890年7月には、中国が極東ロシアを包囲する鉄道の建設に着手したという憂慮すべき知らせがサンクトペテルブルクに届いた。
現在のアムール州、沿海地方、サハリン、ユダヤ自治州およびハバロフスク地方の大部分によって構成される領土をロシア帝国領とする数々の条約をロシアが清朝と締結することができたのは、ようやく19世紀も半ばになってのことだった。
当時はウラル地方が鉄道の終点となっていた。それより先にあったのは、シベリア全土を結ぶ馬車道だけだった。ウラジオストクへは、バイカル湖からシルカ川とアムール川を行く船で到達することが可能だった。アムール川が凍結してしまう冬、または水位が大幅に下がる夏には、定期的な通信が中断された。このルートによる旅には少なくとも11ヶ月がかかった。
その代替手段は、海路でインド、中国、韓国と日本を経由することだった。この旅の所要期間は6ヶ月だったが、ロシアが英国、中国または日本との間で潜在的な対立関係に陥れば、ロシアのヨーロッパ側は極東から直ちに分断されることを意味していた。実際に当時の極東ロシアは、ロシアから分断された「島」も同然だった。
1890年夏に中国が極東ロシアの周囲に鉄道を建設する計画を知ったサンクトペテルブルクの政府が恐怖感を抱いたのは、アジアにおけるロシア領がこのように孤立していたせいなのである。
英国人エンジニアの助力を得た中国は、北京から北部の満州方面に、さらにその先にある中国、ロシアと朝鮮の3カ国の国境に位置し、ウラジオストクからわずか100キロしか離れていない 琿春市に向けて線路の敷設に着手した。
当時の中国の人口は4億人であったが、隣接するロシア極東の人口は200万人に満たなかった。 1890年8月、ロシア帝国のニコライ・ギールス外務大臣は、シベリア鉄道の建設は「最重要案件」であると述べた。
財務的な考慮よりも地政学がものを言った結果、アレクサンドル3世は、ウラジオストクでの鉄道建設を自ら監督するよう、ニコライ皇太子 (後のニコライ2世) に指示した。
当初「大シベリア道」と呼ばれていたシベリア鉄道は、1891年5月31日に着工された。
この鉄道とその建設プロセスは、極東ロシアの社会経済的発展において極めて重要な役割を果たした。 鉄道の建設が始まったわずか5年後、ウラジオストク港の貨物取扱量は30倍になっていた。
輸入品がこれほど膨大な量に増加したのは、それが鉄道建設のためであったからである。太平洋からウラル山脈までを結ぶ鉄道の建設が命じられたことにより、ウラジオストクは大陸横断鉄道の海の門となったのである。
興味深いことに、ロシアに多大な危機感を与えた北京を北部と結ぶ中国の鉄道は、シベリア鉄道の何十年も後になるまで完成しなかった。
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