ソ連の詩人が自作の詩を朗読する姿をジャクリーン・ケネディーが初めて見たのは、1967年にニューヨークの国連会議場でのことだった。彼女はロシア語が分からなかったが、読み手のリズムや美しいメロディー、並外れたカリスマ性が彼女を魅了し、心を揺さぶった。
アレン・ギンズバーグとジャクリーン・ケネディ
アンドレイ・ヴォズネセンスキー基金愛読家で出版人でもあったファーストレディーは、ロシアという国、歴史、バレエに興味を持ち、ロシア系移民と親交があった。奇しくも冷戦の最中に訪米したヴォズネセンスキーは、ジャクリーンを現代ロシアの世界へと導く案内人となり、また真の友となった。
ジャクリーン・ケネディ・オナシス、1976年
アンドレイ・ヴォズネセンスキー基金ヴォズネセンスキーは、エヴゲーニー・エフトゥシェンコ、ロベルト・ロジデストヴェンスキー、ベーラ・アフマドゥーリナ、ワシリー・アクショーノフ、ブラート・オクジャワと並び、ソ連の「60年代人」の一人だった。
彼を文学の道に引き入れたのは、他でもない、あのボリス・パステルナークだった。まさにこの大詩人に、14歳の詩人は自分の詩を送ったのだ。先輩詩人はヴォズネセンスキーの詩を高く評価し、なんと電話で彼を客に招いたほどだった。パステルナークは若き詩人の真の師となった。
アンドレイ・ヴォズネセンスキー、70年代のはじめ
Alex Gotfryd/Corbisヴォズネセンスキーは、25歳の時点ですでに有名詩人として引っ張りだこだった。ロシアでこれほど詩が大衆に愛されたことは後にも先にもないようだった。彼が出演すればスタジアムも満員になるほどで、彼の詩集は数日で売り切れた。
1961年、米国へ派遣されるソ連作家のリストに、思わぬことに彼の名があった。米国へ行くことはソ連人にとって憧れだった。その年、ジャクリーンもまた「幸運の」チケットを手にした。彼女はファーストレディーになったのだ。
ヴォズネセンスキーは英語が堪能だった(理由は学校の先生に対する片思いだと彼は皆に話していた)。おかげで彼は、現地の新聞によれば「オクスフォード大学訛り」の英語で、米国人と自由に話すことができた。
アンドレイ・ヴォズネセンスキーとアレン・ギンズバーグ(左)
アンドレイ・ヴォズネセンスキー基金米国議会図書館には今でも、ヴォズネセンスキーの公演と米国文化人・知識人エリートとの会談の様子を収めた何時間にも及ぶ未解読の映像資料と音声資料が保管されている。詩人は劇作家のアーサー・ミラー、作家のカート・ヴォネガット、ビートニク詩人のアレン・ギンズバーグ(その伝説的な眼鏡をヴォズネセンスキーに遺贈したという)と親交を持った。後にその多くが彼を訪ねてモスクワに来ている。
ボブ・ディランとアンドレイ・ヴォズネセンスキー、1985年
アンドレイ・ヴォズネセンスキー基金有名詩人のウィスタン・ヒュー・オーデンとは特別な友情が生まれた。彼は米国で最初に出版されたヴォズネセンスキーの詩『反世界』の序文を著した。「私はヴォズネセンスキー氏が優れた詩人だと確信している。私はロシア語が分からず、ロシアへ行ったこともないが、彼の詩は英訳でさえ私に多くのことを物語ってくれた」とオーデンは綴っている。
アンドレイ・ヴォズネセンスキーとロバート・ケネディ、1967年
アンドレイ・ヴォズネセンスキー基金詩人はいっそう光栄な機会にも恵まれた。大富豪のピーター・ピーターソン宅に招かれた際、ケネディー大統領の家族と知り合ったのだ。
「ロシアは彼女の情熱の対象だった」とジャクリーン・ケネディーについての回想の中でヴォズネセンスキーは綴っている。彼自身、正確には彼の詩もまた、彼女の情熱の対象だった。国連で最初に出会ってから、彼女はニューヨークで彼が出演する機会をほとんど一つも逃さなかった。
ヴォズネセンスキーの妻の回想によれば、時にジャクリーンは米国内であれヨーロッパであれ、詩人の朗読を聞くためにわざわざ駆け付けたという。彼女はいつも「毛皮の外套と毛皮の肩掛けを身に付けて」最前列に座り、我を忘れて聞き入っていた。
アンドレイ・ヴォズネセンスキーとジャクリーン・ケネディ・オナシス、1990年、ニューヨーク
アンドレイ・ヴォズネセンスキー基金「ケネディーではなくオナシスとなった[ギリシア人の大富豪と結婚したため――編集部註]ジャクリーンは、西側文化人の中で私にとって最も大切で不可欠な人物の一人になった。スター性と非の打ち所がないセンスとを兼ね備える洗練されたヨーロッパ人だ」と自身のファンについてヴォズネセンスキーは記している。
1991年、ニューヨークのスペローネ・ウェストウォーター・ギャラリーでヴォズネセンスキーのヴィデオーマ(詩と絵画、写真を独自にコラージュした、ヴォズネセンスキーが考案したジャンル)の展覧会が開かれた。ケネディーはヴィデオーマ「ナボコフの蝶」がとても気に入り、詩人はそれをレディーにプレゼントした。「蝶」は、ヴォズネセンスキー自身もしばしば訪れた5番街の彼女の家の客間に飾られた。詩人は後に、別の展覧会のために「蝶」を貸してほしいと頼み、彼女の承諾を得た。だが彼が作品を返そうとした時には、ジャクリーンは帰らぬ人となっていた。
『ジャクリーンの蝶』
アンドレイ・ヴォズネセンスキー基金主人をなくした蝶は、
ジャクリーンの蝶になった。
現在モスクワのヴォズネセンスキー・センターで、ケネディー夫人とヴォズネセンスキーの親交の軌跡をたどる手紙、写真、映像インスタレーションの展示が行われている。開催期間は2020年3月29日まで。
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