ロシアの歴史が隠れたニューヨークの名所10選

Professor Barry, John Varoli, Legion Media, Getty Images
 北米最大の都市ニューヨークの市民の基層を成したのは、イギリス諸島やヨーロッパ大陸から流入した移民たちだった。だがロシア人もまた、ニューヨークに確かな足跡を残してきた。

 「ニューヨーク市はロシアと芸術――ひいてはロシアと政治――が出会い、時に衝突する場所だ」と話すのは、ニューヨークに長く住み、評価の高い旅行本や文化本を著しているバリー・ゴールドスミス教授だ。今やロシアの歴史と文化の一部となっているニューヨークの名所を10ヶ所ご紹介しよう。

1. ロシアのアレクサンドル・ケレンスキー元首相の居所。東91通111

  ケレンスキーは、ここの最上階を占領し、人生最後の20年間を過ごした(カリフォルニアのスタンフォード大学でロシア史とロシア政治も教えていた)。 1917年、社会主義革命家のケレンスキーは、レーニンとボリシェヴィキによって暴力的に倒された臨時政府のトップだった。ロシアから亡命したケレンスキーは、ヨーロッパに逃げ、第二次世界大戦後はニューヨークに落ち着いた。1970年に聖ルカ病院で死去した。

2. レーリヒ美術館。西107番通319

 ここは、近代ロシアの神秘的な芸術家ニコライ・レーリヒの作品を集めた美術館で、レーリヒ美術館としては世界で2番目に大きい。レーリヒは1920年から23年まで米国で暮らした。この個人美術館が建てられた1923年には、米国にはレーリヒのファンがたくさんいた。世界の平和と調和を説く彼の哲学が人気を得たのだ。現在、アッパー・ウェスト・サイドにあるこの3階建ての住宅には、ヒマラヤの絵からロシア・バレエの舞台装飾まで、レーリヒの作品が200点近くある。彼の世界調和の思想は、哲学的なシンボルとモットー「パックス・クルトゥーラ」(「文化を通した平和」)という形で視覚的に概念化されており、同美術館は今でもこの思想を推進している。

3. RCAビルディング。ロックフェラー・プラザ30

 デイヴィッド・サーノフとウラジーミル・ツヴォルキンの共同作業の賜物としてテレビ受信機が開発され、アメリカ・ラジオ社(RCA)がその生産を始めた。ミンスク(当時はロシア帝国領)生まれのサーノフは同社の最高経営責任者で、ムーロム生まれのツヴォルキンはサンクトペテルブルクで学を修めた天才発明家だった。

 1930年代に建てられたこのアール・デコ様式の摩天楼は、有名なロックフェラー・センターの中心的な建物だ。オリガルヒのジョン・D・ロックフェラーが支配する米国で最も有力な石油会社「スタンダード・オイル」は、1933年5月1日に開業予定だったRCAビルディングに本部を移転することに決めた。しかし、ウラジーミル・レーニンのせいで開業が2週間遅れた(レーニン自身はとっくに死去していたが)。というのも、左派芸術家のディエゴ・リベラがRCAビルディングの壁画として描いた『十字路の人物』という絵が問題となったのだ。「米国で最も有名な資産家であるロックフェラーが共産主義者のディエゴ・リベラに壁画の制作を委託したのがサーノフのRCAビルディングだった」とゴールドスミス教授は言う。「結果生まれたのは、資本主義と共産主義の芸術的衝突だった。リベラはレーニンとロックフェラーの肖像を壁画に含めたのだ。結局ロックフェラーが壁画の撤去を命じたことで、資本主義が勝利した」。 

4. ローワー・イースト・サイド

 この地区全体が、ロシア帝国から移住して来た100万人以上のユダヤ人のニューヨークでの最初の受け皿となった。ローワー・イースト・サイドは、当時世界で最も人口過密な地区の一つとなった。最も読まれていたユダヤ系新聞『フォワード』の編集者、エイブラハム・カーハンは、この地区が「半平方マイル以下の比較的小さな区域を占め、人口50万ほどの一つの小さな街が詰まっていた。男、女、子供、ほとんど皆ポーランドやロシアから来たユダヤ人だった」と記している。何十ものシナゴーグ、イディッシュ語劇場、イディッシュ語新聞があった。ローズ・コーヘンの著書『陰の中から:ローワー・イースト・サイドのロシア系ユダヤ人の少女時代』(Out of the Shadow: A Russian Jewish Girlhood on the Lower East Side)は、当時のアパート生活と労働搾取工場の厳しい現実を証言するものだ。

5. ルースキー・サモワール。西52番通256

 ソビエト時代後期、この有名レストランは、重要な亡命知識人・芸術家の集まる場所だった。ルースキー・サモワールは1986年にオープンした。ソ連から亡命したロマン・カプラン、バレエ・マスターのミハイル・バリシニコフ、ノーベル賞を獲得した詩人ヨシフ・ブロツキーが、かつてフランク・シナトラが遊んだマンハッタン・ミッドタウンの一角にレストランを開こうと決めたことがきっかけだった。今もブロツキーのお気に入りのテーブルが同じ場所に残っており、バリシニコフの小型グランドピアノも健在だ。このレストランは、米国のテレビドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ』でのバリシニコフとサラ・ジェシカ・パーカーのロマンス・シーンが撮られたことでも有名だ。

6. レフ・テルミンのアパート。西54番通37

 多くの人が、ロシア人発明家のレフ・テルミンが電子音楽の創始者であると認めている。1918年、新発明の真空管テクノロジーを駆使して、彼は電子振動で音を出す新しい楽器を設計・開発した。1927年、ニューヨークにやって来た彼は、世界初の電子警備システムを発明し、ニューヨークのシンシン刑務所に導入した。アルベルト・アインシュタインといった偉人も、テルミンのアパートを訪れ、リサイタルでバイオリンの演奏を披露した。1920年代後半から1930年代まで彼はニューヨークの著名人だったが、1938年にソ連の諜報員に拉致されて祖国に連れ戻された。

7. 宝飾店「ア・ラ・ヴィエイユ・リュシ」。5番街745

 1800年代半ばにキエフ(当時はロシア帝国領)で創業されたこの高級店は、ファベルジェなどロシアの優れた宝飾品を販売し、1930年以降ニューヨークの上流社会のアイコンとなった。20世紀を通して、ニューヨークのみならず世界中のエリートがア・ラ・ヴィエイユ・リュシの常連客となり、ロシアの宝を買った。「祖父母は、ファベルジェの美しい作品を合衆国に紹介した。ア・ラ・ヴィエイユ・リュシは、ニューヨーク市で1920年代からずっと優れたアンティークの宝飾品やロシア帝国の財宝を提供してきたことを誇りに思う」と店を所有する一族の一人、マーク・シェーファー氏は話している。

8. 中央郵便局。8番街40番通

 1912年に建てられたニューヨーク市中央郵便局の玄関には、万国郵便連合を創設した主要国の国章が飾られている。したがって、ロシア帝国の双頭の鷲が天井にあっても驚くことはない。とはいえ、生粋のニューヨーカーでもこれを初めて目にするとぎょっとする。

9. カーネギー・ホール。7番街881

 1891年5月5日、ピョートル・チャイコフスキーは、カーネギー・ホールのグランドオープンに際してニューヨーク交響楽団を指揮した。役員会は、大西洋を7日間かけて横断して訪米してくれるロシアの偉大な指揮者を探していた。当時、サンクトペテルブルクは国際的な文化の都であり、一方ニューヨークは、大志を持った新興富裕層こそ多かったが、文化面ではまだまだ遅れていた。チャイコフスキーは、開業後の一週間に開かれたいくつかのコンサートで自身の作品の演奏を指揮をした。

10. トロツキーとノーヴイ・ミール本社。セント・マークス・プレイス(イースト・ヴィレッジ)77

 この住所に、ニコライ・ブハーニンとアレクサンドラ・コロンタイが編集するロシア系亡命革命家新聞『ノーヴイ・ミール』の本社があった。

 1917年1月14日、米国はヨーロッパから大変変わった難民を迎えた。有名な革命家、レフ・ブロンステイン(トロツキー)だ。彼がニューヨーク港に入った時、彼の名はすでによく知られており、ニューヨーク・タイムズなどの大手新聞が彼の到着を報じた。トロツキーはクロトナ公園近くのブロンクスで暮らし、毎日地下鉄でノーヴイ・ミール本社に通った。彼の息子たちはブロンクスのパブリックスクールに通っていた。

 トロツキーは、クーパー・ユニオンやベートーヴェン・ホールなど、30 ヶ所以上で革命演説を行った。3月15日に皇帝ニコライ2世が廃されると、トロツキーはペトログラードに戻った。11月にボリシェヴィキが権力を掌握すると、彼は新しいソビエト政府で重要な位置を占め、赤軍を創設してこれを率いた。このことから、ブロンクス・ホーム・ニュースは、「ブロンクスの男がロシア革命を主導」という見出しを出している。

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