一党独裁のソ連で選挙が行われたとはちょっと驚きだが、実際、選挙はあった。1936年に採択された、新しいソビエト連邦憲法(スターリン憲法)により、「最高会議」と呼ばれる立法機関が設立され、それ以来、国民は4年ごとにその代議員に投票することになっていた。
そして、その選挙日は、大衆向けのお祭りにしばしば似ていた。
政権が独占されていた他の国と同様に、ソ連の選挙の投票率はいつでも極端に高く、ほぼ100%だった。しかし、ソ連の選挙に参加した人々は、「投票しろという圧力はなかった」と言う。
「全員が選挙へ!」
所蔵写真人々は「自発的」に投票に行った。なぜなら、体制への忠誠を示すことを義務と心得ていたし、当局によって投票するように微妙に動機付けられたからだ。
選挙前に、当局は常に、投票率を上げるためのキャンペーンを始めた。ソ連の新聞は、次の選挙について発表し、人々に日付を知らせた。新聞はまた、選挙準備に関するかなり退屈な報告を次々に大量に載せた。選挙広告のポスターも投票を促した。
個々の有権者はまた、ソ連の「同志」意識に訴える、自分あてのメッセージを受け取った。
1958年の最高会議選挙に投票することを促すハガキ
所蔵写真極めて高い投票率から判断すると、これらの戦略は機能していた。人々は、家族や友人といっしょに投票にやって来て、この素晴らしい日の記念に、集合写真を撮ることがよくあった。投票所の状況はふつうお祭りのそれだった。
最高会議の選挙、1958年
TASS音楽が演奏されていたし、なかには人々が踊っている投票所さえあった。
選挙日、投票所で踊った舞踊団、グルジア共和国、1984年3月4日
Iosif Davitashvili/TASS「私たちはいつも朝一番に投票した。投票所では、オレンジ、ケーキ、クッキーなどの品薄の商品や、他の方法では手に入らなかった珍しい本を購入でき、しかもすぐに売り切れてしまったから」。アレクサンドラ・ゴリュシナさんはこう振り返る。彼女は83歳で、ソ連の選挙に参加した経験がある。
お祭りのような雰囲気と、珍しい品物は、人々を投票所に誘導するのに役立ったが、ソ連国民の圧倒的多数は、投票することが自分たちの義務だと信じていた。他に選択肢のない「選挙」での投票はすべて自動的に、共産主義体制の有効性への信認投票になったからだ。
トナカイ飼育所で行われた投票、1975年6月15日
V. Yakovlev/Sputnik「珍しいもの(各種商品)を買えようが買えまいが、人々は投票所に来ていた。ソーセージが欲しい人もいれば、欲しくない人もいたが、誰もが投票しなければならぬと考えた。それは神聖な義務だった」。ニコライ・ボブロフさんは語る。彼は、1971年以来、ソ連の選挙に参加していた。
投票に行く労働者、ゴーリキー州、1984年3月4日
Vladimir Voitenko/TASSもう事前承認されてしまっている「候補者」に投票することが気に入らない人もいた。なにしろ、これらの候補者は、何らかの役職に立候補している間、無競争の状態なのだから。しかし、そういう人も、周囲からのプレッシャーにより、投票することを余儀なくされた。
「たとえば、私の父は選挙があまり好きではなかったが、(それでもとにかく)投票に行った」とボブロフさんは回想する。
ソ連にはいかなる野党、反対勢力もなかった。ソ連共産党は、国内で唯一の合法的な政党だった。全国民がこの政党を支持することは当然とされ、党の路線へのどんな異議も、反抗の由々しき兆しとみなされた。
選挙活動を行う最高会議の候補リディア・マカロワ、1979年1月1日
Boris Kavashkin/TASSほとんどの候補者は、共産党から立候補したが、形式上は独立系の候補者もいた。しかし、彼らもまた、共産党の候補者に協同し、異を唱えることはなかった。
各選挙区の候補者は一人しかおらず、いわゆる「共産主義者と非党員の鉄壁のブロック」から出た。
レニングラード州の投票所、1984年3月1日
Ivan Kurtov/TASSこうした唯一の候補者に反対票を投じることは、できなくはなかった。しかし、そのためには、特別な投票ブースを使わなければならなかった。一方、その無競争の候補者に投票する場合は、白紙の投票用紙を出せばよかった(つまり、特別な投票ブースに行かなくてもすんだ)。
だから、ほとんどの人はただ白紙の投票用紙を投じ、投票ブースに入った人は、潜在的な反体制派として疑いの目を向けられた。
ミハイル・ゴルバチョフは、1989年に、新たな立法機関「ソビエト連邦人民代議員大会」を設立し、それによってソ連の政治システムに民主化の要素を導入した。その後で、数十年間で初めてソ連国民は、競争原理のある選挙を体験することになる。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。