1782年6月29日にブリュッセルで催された会食で、当時皇太子だったパーヴェル・ペトローヴィチ大公は、自分がうっかり「恐ろしい話」を話したことを、その後何度も後悔することになる。
パーヴェルと妻マリア・フョードロヴナは、セーヴェルヌイ(「北の」の意味)伯爵夫妻と名乗って、半ばお忍びでヨーロッパを旅していた。
その夜、劇場での観劇の後、マリア大公女は、疲れたと言って自室に戻ったが、パーヴェルは歓談の席にとどまった。夜になると、自分たちが見聞きした「神秘的な話」をお互いにし始めた。オーバーキルヒェ男爵夫人は、大公夫妻と親しかったが、27歳の若き大公が「恐ろしい話」を語ったことを後に思い出している。
オーバーキルヒェ男爵夫人
Public domainそれによると、パーヴェルはある夜、サンクトペテルブルクを散策していた。すると、外套をまとい帽子をかぶった長身の男に出くわした。男は、顔を覆い、あたかも墓場のような冷気を発していた。見知らぬ男は、しばらくパーヴェルと並んで歩いた後、「お前は何者か」という問いに答え、こう言ったという。
「私が何者かと聞くのか。かわいそうなパーヴェルよ!私は、お前の運命に関わっている者だ。お前は、この世に長くとどまることはない。だから、お前がこの世にあまり執着しないよう、私は望んでいる。正義の法に従って生きよ。そうすれば、お前は落ち着いて終わりを迎えることができよう。良心の呵責を恐れよ。高貴な魂にとって、これ以上厳しい罰はない」
この話を聞いて、リーニュ公は尋ねた。「それが何を意味するのか、大公殿下はご存じですか?」
「それは私が若死にすることを意味する」
ミハイロフスキー城
Ruffery (CC BY-SA 3.0)1801年3月12日夜、陰謀家たちによる皇帝パーヴェル1世の暗殺が、ミハイロフスキー城で実行された。
この暗殺には、あたかもそれを予告したかのような伝説がまとわりついている。言い伝えによれば、1800年にパーヴェルは、アレクサンドル・ネフスキー大修道院の名高い予言者だった修道士アヴェリを訪ねた。アヴェリは、皇帝の寿命に関する質問にこう答えたという。
「そなたの命数は、あの字の数に等しい」
これは、ミハイロフスキー城正門の「ヴォスクレセンスキエ(復活)門」に刻まれた碑文の文字数のこととされている。すなわち、「主よ、あなたの定めは確かであり、あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り」«Дому твоему подобаетъ святыня господня въ долготу дней»(「詩篇93」からの引用)。
(正教では「聖詠」92で、日本語訳は「聖徳は爾の家に属して永遠に至らん」)。
計47文字だ。もっとも、この予言は聖女クセニア(ペテルブルクのクセニア)に結び付けられることもあるが。
ところが、この予言には確たる証拠がない。この話を含む、当時の手紙や回想さえない。ちなみに、殺されたときにパーヴェルは46歳だった。
修道士アヴェリについても、事実と一致しない点がある。そもそも彼は、1800~1801年当時、サンクトペテルブルクの主要な修道院である、このアレクサンドル・ネフスキー大修道院にはいなかった。
1796年、パーヴェル1世が即位する6か月前のこと、アヴェリは、秘密警察長官アレクサンドル・マカロフから尋問を受け、シュリッセリブルク監獄要塞に収監された。しかしパーヴェルは、即位後すぐに、アヴェリを釈放し、ノヴゴロドおよびサンクトペテルブルク府主教であるガヴリールに身元を引き渡すよう取り計らった。アレクサンドル・ネフスキー大修道院では、アヴェリは(自分の希望で)剃髪したにすぎない。
パーヴェル1世
Vladimir Borovikovskyところが、剃髪すると間もなく、アヴェリは勝手に大修道院を去って、モスクワに赴き、そこで「予言」をしてお金を集めたため、1798年に、ラドガ湖のヴァラーム修道院に追放された。
1800年3月、アヴェリの庵室で奇妙な本が見つかった。「彼から取り上げられた本には…紙が挟んであり、ロシア語の文字で書かれていた。しかし、その本は未知の言語で書かれていた」。ペテルブルク府主教アンヴローシーは、オボリヤニノフ検事総長にこう書き送った。
検事総長はこの一件をパーヴェルに報告。アヴェリの行為に怒った皇帝は、この修道士をサンクトペテルブルクに移送し、ペトロパヴロフスク要塞に投獄するよう命じた。命令は1800年5月26日に実行された。
「かの男は、単なるごろつきで、その虚言にはいかなる意味もない。いわゆる予言なるものと妄想をもって、不安な人間を誘惑し、だまし取ることをもくろんでいる」。これが要塞からの、アヴェリに関する報告だ。
パーヴェル1世が死亡するまで、アヴェリは、ペトロパヴロフスク要塞の半月堡に留め置かれた。パーヴェル後に即位したアレクサンドル1世のもとで、アヴェリは、白海のソロヴェツキー修道院に移された。
ミハイロフスキー城
Andrew Shiva (CC BY-SA 4.0)パーヴェル1世の最後の晩餐は、近親、側近が出席し、1801年3月11日夜に行われた。祖国戦争に際してロシア軍総司令官となるミハイル・クトゥーゾフも出席していた。クトゥーゾフの話を副官アレクサンドル・ランジェロン伯爵が伝えている。
「我々は、皇帝と夕食をとった。20人ほどが食卓に座っていた。皇帝はとても陽気で、冗談を飛ばしていた…。夕食後、皇帝は鏡で自分の顔を見た。鏡は歪んでおり、顔が曲がって見えた。彼は笑って私(クトゥーゾフ)に言った。『ほら、面白い鏡じゃないか。首が傾いた自分が見える』。それは彼の死の1時間半前のことだった」
ミハイル・クトゥーゾフ
Józef Oleszkiewiczここでの「予言」とは何か?皇帝に対する凶器は、何か重い物(鈍器)とスカーフであり、絞殺されたことが知られている。「首はかしいでいた」だろう。
イワン・マトヴェーエヴィチ・ムラヴィヨフ=アポストルも、この晩餐に出席していた。彼は、パーヴェル1世の息子、アレクサンドルとコンスタンティンの扶育官であり、外務コレギア(外務省に相当)の副総裁だった。彼は、パーヴェルとクトゥーゾフの最後のやり取りを覚えていた。
「最後に二人は、死について話した。『あの世に旅立つのは、ありふれた旅の前に袋を縫うのとは違うよ』」。これが、パーヴェルのクトゥーゾフへの別れの言葉だった。
もう一つ、奇妙な兆しと言えば兆しらしいものがある。もっとも、それは、同時代人の回想ではなく、19世紀の歴史家で、ニコライ1世の伝記を書いたニコライ・シリデルによるものだ。それによると、3月11日夜、パーヴェルは、5歳の息子ニコライの部屋に入った。息子は、なぜ父親がパーヴェル1世(最初のパーヴェル)と呼ばれるのかと尋ねた。
「『私の前には、この名をもつ君主がいなかったからね』と、皇帝は息子に答えた。『それなら僕は、ニコライ1世と呼ばれるんだね』。『まあ、お前が皇帝になるならな』。皇帝は言い、息子に強く接吻し、足早にその部屋を出た」
パーヴェル1世の暗殺
Public domainブリュッセルでの晩餐でパーヴェル自身が語った「最初の予言」に話を戻そう。この話で彼は、いわば自分についてのミームを立ち上げ、それは今日まで流布している。彼自身がこの予言を信じていたというのだが…。
しかし、この話を伝えたオーバーキルヒェ男爵夫人は、パーヴェルが今度はアムステルダムでの夕食時に自分にこう言ったと、回想録に記している。
「実際、私(パーヴェル)とあなたは、楽しいひと時を過ごしたじゃありませんか?話の面白さより、あなたが真に受けたことのほうが面白いですよ」
男爵夫人はパーヴェルに対し、殿下は本当にご自分でこんなお話を、「ちょっと人を怖がらせるために」考え出したのですか、と尋ねた。
すると、パーヴェルはただこう答えた。「まあ、これはそんな大した話じゃありませんよ。お分かりでしょう。悪戯、おとぎ話、たわ言ですよ。ちょっと楽しむのに、わざわざ真に受ける必要はありません」
男爵夫人によると、パーヴェルは、こんな話をしたことで、自分に腹を立てていた。「でも、皆さん、私の話は秘密にしておいてください。私が一役演じている幽霊話がヨーロッパ中に広まると、非常に不愉快なことになりますからね」。パーヴェルはこう締めくくったという。
後年、歴史家カジミール・ヴァリシェフスキーが指摘していることだが、男爵夫人が「このお話に劇的な彩りを与えて」、多くの紙幅を費やしたことは理解できる。
この男爵夫人、すなわちヘンリエッタ・ルイーズ・ド・ヴァルトナー・ド・フロインドシュタインは、わずか2年間だが、パーヴェルより長生きした(1803年没)。彼女もまた、48歳の若さで亡くなり、晩年の数年間に回想録を書いた。
だから彼女は、パーヴェル1世の死については承知していたわけだ。見ての通り、男爵夫人はブリュッセルでの晩餐会でパーヴェルにした約束を守らなかったことになる。
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