ソ連時代のプーシキン美術館はもう少しでスターリン博物館になるところだった

ロシア・ビヨンド, Anatoly Garanin/Sputnik, Public Domain
 世界的な絵画の傑作は収蔵庫に追いやられ、巨大な美術館の展示室には友好国の炭坑夫からスターリンへの贈り物やそれ以外のもので埋めつくされた。

 世界最大の芸術コレクションの一つを誇るモスクワの国立プーシキン美術館は、1940年代末、存在を停止し、ヨシフ・スターリン博物館になるかもしれなかった。美術館の中のほぼすべての展示品が追いやられ、そこで指導者への寄贈品の展示が行われた。しかも、その他の一時的な展示と異なり、この展示会に期限はなかった。

溢れんばかりの収蔵庫

 第二次世界大戦中、美術館の展示品の大部分が避難させられた。戦時中、屋根には爆弾が投下され、多くの展示室は暖房が切られた状態だった。しかし1946年には、美術館は修理され、すべての名画は元の場所に戻され、再び開館した。

 1940年代末、プーシキン美術館は、芸術の真の箱舟となった。ここには、ドレスデン美術館のコレクションを含むドイツからの戦利品―絵画や家具、陶器、彫刻などが大量に運ばれた。このほか、1948年、コスモポリタニズムとの戦いの中で、美術館には、国有化されたセルゲイ・シューキンとイワン・モロゾフの貴重な西洋画コレクションが加えられた。収蔵庫に入った作品の中には、クロード・モネ、ルノアールからマチス、ピカソといった印象派、ポスト印象派の傑作が含まれていたが、これらの「有害な」作品の展示は計画されなかった。

プーシキン美術館の様子、1947年

 美術館は事実上、溢れんばかりの作品を対処できなくなった。美術館は文字通り、多種多様な美術品でいっぱいになった。学芸員たちによる数量のチェックや説明文の添付作業も追いつかなくなり、素晴らしい芸術品は収蔵庫の中にところ狭しと詰め込まれた。数えられていない西欧の名画の一部は役人たちの執務室に飾られ、また戦利品の家具は、研究センターやその他の事務室で使われた。

プーシキン美術館を訪れた学生たち、1947年

 1949年、美術館をヨシフ・スターリンの70歳の誕生日への贈り物を集めた展示会を開くための政府委員会が訪れた。美術館の多くの職員がこのための準備作業に取り組まなければならなくなった。しかし、最初に30人の職員が解雇された。というのも、国家安全保障機関のチェックをパスすることができなかったからである。

装飾を早替え 

 制服をつけた人々は非常に丁寧に、しかし厳しく、美術館の中央の展示室から作品を撤去させた。文字通り、わずか2日間で、12の展示室から、フランス、オランダ、イタリアなど西欧の作品およそ1,500点、そして美術館の「目玉」である古代の有名な彫刻や建築用の模型も収蔵庫へと送られた。

 プーシキン美術館のアレクセイ・ペトゥホフ主任学芸員は、当時、この作業に参加した美術館の職員たちの姿を目の当たりにした。とりわけ、ある女性学芸員の一人は、ついさっきまでイタリア芸術が飾られていた同僚と共にがらんとした展示室にやってきて、自身の無力さに大泣きしたと回想している。

 1週間という記録的な短い期間で、美術館に、複雑な合板でできたスターリンの展覧会の枠組みが作られ、クラシックなポルチコはスターリンの巨大な肖像画で覆われた。展示室には運命の皮肉にも、スターリンの肖像画の裏に保管されたピカソの傑作は日の目を見ることはなかった。 

 ちなみに展覧会には、簡単に燃える材質や布が詰まれ、通路は遮断され、電気線が多様されるなど、火災安全法の規準を違反して準備された。

美術館の中の博物館

 この展覧会ではありとあらゆるものが展示された。スターリンやその同僚らの刺繍がなされたカーペットや絵画、およそ1,000点もの銅像。その中にはシレジヤの炭鉱から採れた無煙炭で作られた彫刻も含まれていた。加えて、花瓶、テキスタイル、陶器、加えて、世界中の友好的共産国からのお菓子やキャンディーまでもがあった(多くにはすでにうじ虫がわいていたが、国民からスターリンに送られたものを捨てる勇気のある人はいなかった)。

 当時の職員の一人、オリガ・ニキチュークさんは、ペトゥホフ学芸員との対話の中で、西欧美術の専門家らは来館者らに、米粒、炭、金属に描かれたスターリンの肖像画について説明しなければならなかったことを回想している。エクスカーションのテキストは政府によって承認され、学芸員たちはそのすべてを暗記し、けして横へ逸れてはいけなかった。これは必ず守らなければならないもので、それに違反すれば解雇されることもあった。

 また、職員たちは、完璧な状態が行き届いているよう監督し、チェコスロヴァキアから贈られたワイングラスのセットがついた開閉式のテーブルが動かなくなったときには大騒ぎとなった(下の写真はチェコスロヴァキアからの贈り物だけが並べられた展示室)。

 美術館の建物の警備は最大限に強化された。全ロシア臨時委員会(チェーカー)のメンバーたちは犬を連れてきた。

 展示会には400万人もの人が訪れた。しかし、スターリン自身は一度も姿を見せることはなかった。展示会は期限はなかったが、1953年3月にスターリンが逝去した後ですらも、この展示会を「終了させる」などということを考える人はいなかった(あるいはそのような勇気はなかった)。

 しかし、同じ年の夏のある日、出勤した職員たちは政治局員たちの肖像画が描かれたトルクメニスタンの巨大なカーペットが見えないのに気がついた(下の写真)。これほど厳重に警備された場所で、それほど大きな展示物が盗まれたり、紛失する可能性などなかった。カーペットには、スターリンの同志らや当時ちょうど逮捕されていたラヴレンチー・ベリヤ内務人民委員の姿が描かれていた。そしてまもなく、展示会は永遠に閉鎖された。

 展示が終わった後、わずかでも芸術的な価値のある展示品はモスクワの美術館に分配された。何点かはプーシキン美術館に残され、何点かは革命博物館、レーニン博物館、モスクワ博物館に移された。またたとえば、チェコ人から贈られたJAWAのバイク、線路、スクリュードライバー、その他の技術品、歴史的な道具などは工業博物館に移された。

 そして1953年12月25日、プーシキン美術館では、古代東洋、西欧(6世紀から20世紀まで)の芸術と文化の展示室が大々的にオープンした。印象派の作品でさえも、そのとき初めて公開された。

 後に、大規模な修復工事が行われた後、美術館は戦利品とドレスデン美術館の傑作を集めた展示会を開催した。そのとき、伝説的なラファエロの「システィーナの聖母」がドイツに返還される前に初めて展示され、これが最後の展示となった。

プーシキン美術館で提示されたラファエロの「システィーナの聖母」、1955年

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