ソ連では外国人との結婚が禁じられていた?

歌手ウラジーミル・ヴィソツキーと彼の妻になったフランス人女優マリナ・ヴラディ

歌手ウラジーミル・ヴィソツキーと彼の妻になったフランス人女優マリナ・ヴラディ

James Andanson/Sygma/Getty Images
 懲役10年――1940年代に外国人男性と結婚した女性はこのような刑を受けた。ソ連の国家保安機関はこうした女性らをしっかり監視しており、夫と再会できた者はごく一部だった。しかも恐ろしい犠牲を伴うこともあった。

 在ソ連英国大使館があったモスクワのソフィースカヤ河岸通りのハリトネンコ邸には、ハーバート・ジョージ・ウェルズやイサドラ・ダンカン、ウィンストン・チャーチルなど、その時々の有名人がやって来た。1945年8月以降、ここで15人のロシア人女性がまるで人質のように暮らしていた。さまざまな経緯で英国人と出会って結婚した女性たちだ。

ハリトネンコ邸(元在ソ連英国大使館)

 英国人がソ連に来る事情はさまざまだった。例えば、ソ連の工業化に貢献した技術専門家や、または武器貸与法でアルハンゲリスク港やムルマンスク港に物資を届けたいわゆる「北極海輸送船団」に乗っていた航海士だった。ロシア人との接触は良しとされなかったが、それでも友情や恋愛が生まれることはあった。こうして戦時中にロシア人女性と英国人男性との間で35組の夫婦が誕生した。20人の女性は夫とともに出国することができたが、15人は国境で拘束された。戦争が終わり、ソ連の国家保安組織は自国民が――夫のもとへであったとしても――英国に去ることを断固認めなかったのだ。

「我々の妻を返せ」

 内務人民委員部の迫害を恐れた女性たちは英国大使館に助けを求めた。その一人が、英国人外交官ピーター・スクワイアの妻リュドミラ・ホフリナだった。終戦後、夫は祖国に呼び戻されたが、リュドミラの渡航は認められなかった。ロンドンでは、ピーターと他の英国人夫らが「我々の妻を返せ」と書かれたプラカードを持ってソ連大使館の前に立ったが、成果はなかった。一方ソ連では、英国の大使が15人の女性全員を呼び出し、離婚を提案した。ほぼ全員が同意した。1948年のイズベスチヤ紙には、リュドミラ・スクワイア(ホフリナ)の「公開書簡」(リュドミラ本人が書いたものではないだろう)が公表されたが、そこには「私の夫が反ソ運動に参加したことを知った今、このような人物の妻であり続けたくはない」などと書かれていた。にもかかわらず、結局彼女は8年近くソ連の収容所に入れられた。

リュドミラ・ホフリナ(左)とピーター・スクワイア(右)

 1960年になってようやくリュドミラはピーターと手紙でやり取りすることができた。彼は彼女のことを忘れておらず、知らせを長らく待っていたが、結局別の女性と結婚していた(この女性もロシア人だった)。15人の「一時寡婦」のうち、英国に行けたのはクララ・ホール一人だけだった。彼女は大使館を離れることを断固拒否して18ヶ月居座り続け、最終的にソ連から出してもらえた。

 女性らがこれほど厳しく対処されたのは、もちろんソ連の情報機関が、彼女らが外国の情報機関の情報提供者やスパイになることを恐れていたからだった。こうしたことは、ロシア人ジャーナリスト、オリガ・ゴルプツォワの例をはじめ、実際に起こっていた。実のところ、英国はアルハンゲリスクで8人ほどの女性を雇い、英国の情報機関のために働くことに署名させていた。その一人アントニナ・トロフィモワは、当局に正体を暴かれ、追及に屈して他の女性たちのこともばらした。正体を明かされた「スパイ」たちは、アントニナを含め、国家反逆罪で全員収容所送りになった。実際のところ、生活が厳しかった女性らは(戦時中のアルハンゲリスクの配給は包囲下のレニングラードに負けず劣らず少なかった)、裕福な英国人が提供してくれる衣食に誘惑されただけだったのだが。ところで、すべてが打算的な動機によるものでもなかった。ロシア人と英国人のロマンスには真実の愛もあった。しかし、こうしたカップルの関係も、外国人との結婚を禁じる法律に抵触することになった。

愛のために収容所へ

作曲家セルゲイ・プロコフィエフの家族(スペイン人の妻カロリナ・コディナは右)

 1917年、ソビエト政府は教会での挙式や伝統的な結婚式を廃止した。家族愛・性愛の自由が新しいソビエト文化の一部だった。外国人との結婚は珍しくなく、有名な国際婚夫婦はセルゲイ・エセーニンと米国人イサドラ・ダンカン、セルゲイ・プロコフィエフとスペイン人カロリナ・コディナ、外務人民委員マクシム・リトヴィノフと英国人アイヴィー・ロウなど、枚挙に暇がなかった。しかし1930年代末までに、家族に関する法律が厳格化された。1936年、中絶が禁止された。同時に離婚の手続きも複雑化され、夫婦双方が出廷して裁判所が判断することになり、罰金(100~200ルーブル)が科されることになった。1944年、罰金額はぐんと引き上げられ、今や離婚には500~5000ルーブルが必要となった(国民の大半はこれほどの大金を持たなかった。ソ連の1939年当時の平均年収は4000ルーブルだった)。1940年のモスクワでの離婚件数が年間1万~1万2000件だったのに対し、1945年の離婚件数は679件にまで減少した。

マクシム・リトヴィノフ(左)と妻アイヴィー・ロウ(右)

 戦後、ソ連は男女合わせて数千万人の生産年齢人口を失った。ソ連兵の中には、赤軍が欧州に駐留した間に家族を作った者もいた。被占領地から追放された捕虜全員が帰国したわけではなかった。ソビエト政府は、主に夫婦の二重国籍問題を恐れて、家族の再会に取り組むことに乗り気ではなかった。英国人の妻となった15人の件も影響した。1947年、ソ連国民と外国人との結婚を完全に禁じる法律が制定された。公式見解は「我が国の女性らは、外国人と結婚して国外に出ると、慣れない環境で居心地が悪くなり、鬱になる」というものだった。違反者は反ソ活動に関する58条によって罰せられた。この法律の制定前と制定直後に、最もスキャンダラスな事件が起こった。1946年、在ソ連チリ共和国大使アルヴァロ・クルス・ロペス・デ・エレディアが19歳のリディア・レシナと結婚した。新法の制定により、夫婦の関係は違法となり、おまけにソ連はチリと断交した。夫婦はホテル・ナツィオナーリに移り住み、5年間ほとんどそこから出なかった。結局彼らはチリに出国できたが、祖国でレシナの夫は発狂してしまった。

 1946年、在モスクワ米国大使館の通訳ロバート・タッカーがエヴゲニア・ペストレツォワと結婚した。タッカーのソ連勤務が終わると、彼は妻の出国が認められないことを知った。彼らは隠れることはできなかったが、タッカーはソ連に残り、カナダ大使館やインド大使館で通訳としてアルバイトをした。夫婦がソ連から出られたのは、スターリンの死後のことだった。

 有名人でも常に難を逃れられるとは限らなかった。女優ゾーヤ・フョードロワは危険人物と恋仲になった。米国大使館の駐在武官ジャクソン・テイトだ。彼は間もなくソ連から追放されるが、フョードロワは彼の子をお腹に宿していた。父子関係を隠すことはできなかった。フョードロワは25年の懲役刑となり、彼女を助けた姉マリアは懲役10年の刑を受け、収容所で死亡した。生まれた娘ヴィクトリアは、自由の身だった別の姉に託さざるを得なかった。少女が本当の母親を知ったのは9歳の時で、この時ゾーヤは名誉回復された。娘の父親と会えたのは1976年のことだった。

ゾーヤ・フョードロワ(右)とジャクソン・テイト(左)

「移住手段として外国人の夫を求む」

モスクワで行われた世界青年学生祭典の参加者たち、1957年

 ソ連で外国人との結婚を禁じる法律が撤回されたのは1953年、スターリンの死後のことだった。しかも、外国人との結婚によってソ連国民が国籍を変更する必要がなくなった。「雪解け」は一見ソ連と「外国」との関係に良い影響をもたらすかに思われた。1957年、モスクワで世界青年学生祭典が開かれ、1960年には、民族友好大学が創設された。しかし、実際には、当時外国人と結婚するためには、大量の書類と人物証明書を集め、当局職員と何度か面談し、夫婦関係のありとあらゆる事実を明かさなければならなかった。1950年代から1960年代には、外国人と恋愛関係になれば、自動的にKGBの恒常的な尾行対象となった。国際結婚をすれば弾圧対象となり、党を除名され、職場から解雇されたり、遠隔地に左遷されたりした。ソ連人の気質を損なわないためという理由だった。

 アスリートのインガ・アルタモノワはスウェーデンで行われた大会でスウェーデン人アスリートと出会い、モスクワに戻ると彼と文通を始めた。噂では、KGB職員は彼女に毎日接触し、仕事帰りの路上で彼女を待ち伏せて、アルタモノワ自身とその親族にどんな罰と不幸が待っているかを伝えて脅したという。アルタモノワは圧力に屈し、スウェーデン人との文通をやめた。彼女は29歳の時に殺害された。夫でアスリートのゲンナージー・ヴォローニンに不貞を疑われ、ナイフで刺されたのだった。

 特権階級でも尾行と禁令を避けることはできなかった。ブレジネフ総書記の弟ヤコフの娘リュボーフィ・ブレジネワは、モスクワに留学していたヘルムートというドイツ人軍人と知り合った。数ヶ月間はカップルは単に尾行されていただけだったが、その後脅しが始まった。諜報員らはわざとブレジネワの部屋を荒らし、彼女が不在の時に家宅捜索が入ることを分からせた。恋人はソ連国防省に呼び出され、出国を求められた。レオニード・ブレジネフとの親族関係も助けにはならなかった。噂では、ブレジネフ自身が姪に「お前を逃がせば他の者も逃げてしまう」と言ったらしい。どうやら、身分の高いソ連人の娘の多くが国外に出たがっていたが、国が許さなかったようだ。

 新たな「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国結婚・家族法」が採択された1969年以後、国際結婚の手続きは簡素化された。大都市の所定の戸籍登録課でしか手続きできなかったものの、外国人を伴侶に選んだ女性に対する尾行が例外なく行われることはなくなった。外国人との結婚が流行したが、これには国外(主にイスラエルや米国)に出たいという動機もあった。国際結婚は小話のネタにもなり、ソ連女性は「移住手段として夫を求む」と冗談を言ったものだった。

 文化人にとっては外国人女性との結婚は粋な行為だった。ウラジーミル・ヴィソツキーはフランス人女優マリナ・ヴラディ(父親はロシア人だった)と結婚し、詩人エヴゲニー・エフトゥシェンコはアイルランド人ジャン・バトラーと結婚した。映画監督アンドレイ・コンチャロフスキーはフランス人ヴィヴィアン・ゴデの夫となった。しかし、国際結婚は特権階級の独占物ではなくなった。1987年、レニングラードでロック・バンド「キノー」のギタリスト、ユーリー・カスパリャンが米国人ジョアンナ・スティングレイと結婚した。

ウラジーミル・ヴィソツキー(左)とマリナ・ヴラディ(右)

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