いかに赤軍はレニングラード包囲を突破したか:封鎖解除の成功から80年(写真特集)

Boris Kudoyarov/Sputnik
 赤軍が突破すべきはわずか15 キロメートル。だが、このわずかな距離が、3 万人のソ連兵の命を奪った。

 1941 年 9 月 8 日、ナチス・ドイツの「北方軍集団」の部隊が、レニングラードと内陸部をつないでいたラドガ湖畔のシュリッセリブルク市を占領し、レニングラード周辺を陸路で封鎖した。こうして、250 万人以上の市民と赤軍の約 50 万人の兵士が包囲された。

 ドイツ軍とフィンランド軍によって封鎖された都市は、ラドガ湖を通る水路だけで「本土」とつながっていた。この「命の道」に沿って、食料と弾薬がレニングラードに送られ、住民は避難した。

封鎖されたレニングラードへの食料などの物資の輸送

 しかし、敵の砲火に絶えずさらされた「命の道」も、ソ連の航空輸送も、大都市に対して本格的な供給を組織することはできなかった。1941 年冬、レニングラードで恐ろしい飢餓が始まった。人々は職場で疲労困憊して気絶した。カニバリズムの事例が記録され、路上には何百もの死体が横たわっていたが、すぐに誰も驚かなくなった。

 1941 年と 1942 年、赤軍は、レニングラードの封鎖を解除しようと繰り返し試みたが、部隊の行動における調整の欠如、人員、資源、戦闘経験の不足により、これらの試みは常に失敗に終わった。しかし、その一方で、「北方軍集団」に対して赤軍が絶えず圧力を加えていたため、ドイツ軍司令部はレニングラード付近から他の前線に予備軍を移すことができなかった。

ヴォルコヴォ墓地

 明くる1943 年をレニングラード市民は、前年よりもはるかに緩和された状況で迎えた。やはり占領下にあった郊外では、すでに補助農場が組織・運営されており、パン配給の量が増やされ、交通機関も部分的に再開され、一日数時間は電気も供給されるようになった。

 にもかかわらず、レニングラード市民は依然として、封鎖下で惨憺たる苦しみを嘗めていた。   

 「レニングラード市民よ、我々はあなた方とともに進もう。いまだ厳寒と戦闘、砲火と泥濘、呻き声と歯ぎしりのなかを進まねばならぬ。憂慮すべきことは山ほどある。だが、我々の兄弟的な団結はいやがうえにも強固となる!反撃の準備をせよ!」。作家フセヴォロド・ヴィシネフスキーは、新年のスピーチでこう述べた。

聖イサアク大聖堂の前の菜園

 反撃の準備は実際になされていた。前年の1942年11 月に、ソ連軍は、スターリングラードの戦いで、大反攻「ウラヌス作戦」を成功させ、勝利を確実にする。これにより、独ソ戦(大祖国戦争)における戦局が変化した後、「赤軍スタフカ」(赤軍総司令部)は、1943 年 1 月に大規模な反撃「イスクラ作戦」を実施して封鎖を解除することを決定した。

 この反攻は、シュリッセリブルク――シニャーヴィノ丘陵の、ドイツ軍の突出部で行われることになっていた。ここでは、わずか15 キロメートルの距離が、「本土」から都市の防衛者を隔てていたにすぎない。レニングラード方面軍を率いるレオニード・ゴヴォロフ中将(最終階級は元帥)が「内側」から包囲を突破し、「外側」からは、ヴォルホフ方面軍を指揮するキリル・メレツコフ(最終階級は元帥)が包囲を破り合流することが想定されていた。

 ソ連側の反攻部隊は、兵力約30万人だったが、ドイツ軍は6万人しかいなかった。しかも、赤軍は、重火器で6倍、戦車で10倍、航空機で2倍、敵を上回っていた。 

 しかし、この 15 キロメートルを突破するのは容易ではなかった。包囲の期間に、ドイツ軍はこの突出部を、多数の防御拠点や通行困難な湿地帯をもつ強力な要塞エリアに変えていた。そして、それらの間には有刺鉄線と地雷原が密に設置されていた。

攻撃開始の前に

 12 月中、赤軍は、イスクラ作戦遂行に向けて集中的に準備を進めていた。後方では、いくつかの都市で訓練が行われた。すなわち、攻撃部隊その他の将兵が、ここに特別に築かれていたドイツ軍の防御陣地を強襲した。

 「我々の特別な関心事は、封鎖突破の準備を秘密に保つことだった」。ヴォルホフ方面軍のイワン・フェジュニンスキー副司令官は回想する。「部隊の移動・再編は、夜間または飛行に適しない天候においてのみ行われた。戦闘による敵情探索および夜間の偵察は、敵と直接接触していた部隊だけが関わった。こうした措置は、その役割を果たしたと言える。なぜなら、敵は、我が軍が反攻の準備をしていることを作戦開始の直前に突き止めることはできたが、それでも反攻の日時と兵力は分からずじまいだったからだ」

空挺部隊の攻撃

 1943 年の元日にイスクラ(ロシア語で「火花」)は「点火」される予定だったが、寒さが緩んだため、作戦はしばし延期された。しかし、ついに1 月 12 日朝、赤軍の凄まじい砲撃と爆撃が敵陣地を襲った。

 「ロシアの凄まじい砲撃、爆撃の印象は今でも忘れられない」。元ドイツ兵、ヴィルヘルム・ラメイヤーは振り返る。「地獄のような轟音、砲弾や地雷の炸裂を思い出すたびに、身震いする」

 猛爆撃に続いて、赤軍の両戦線の部隊は、同時に攻勢に出た。レニングラード方面軍は、この時までにすでに凍結していたネヴァ川を渡り、市街地から敵を駆逐し始めた。しかし、薄い氷は、重戦車や中戦車に耐えられず、赤軍兵士は、軽戦車の T-60、T-26、装甲車でがまんしなければならなかった。

 しかし、T-60 のうちの 1 両は、赤軍の砲火に援護されつつ、ドイツの新型の重戦車「ティーガーI」(VI号戦車ティーガーE型)の 2 両を巧みに誘い込み、瞬く間に破壊した。泥炭にはまり込んで乗員に放棄されたもう1両の「猛虎」は、完全に機能している状態で鹵獲された。  

 ヴォルホフ方面軍の部隊はゆっくりと、しかし確実に前進した。これに対し、敵は慌てて戦闘区域に予備部隊を投入した。1 月 14 日、シュリッセリブルクではすでに激戦が繰り広げられていた。そして、1 月 18 日朝、歴史的な出来事が起きる。レニングラード方面軍の第 136 自動車化狙撃師団と第 61 戦車旅団は、「第5労働者村」の区域で、ヴォルホフ方面軍の第 2 攻撃軍の部隊と合流を果たしたのだ。 

 「私は見た――封鎖を突破した前線の戦士たちが、どれほど歓喜して互いに駆け寄ったかを。シニャーヴィノ丘陵の側面からの敵の砲撃に目もくれず、兵士たちは兄弟のようにしっかりと抱きしめ合った。それは本当に苦難を乗り越えての歓喜だった!」。こう回想するのは、当時最高司令官代理だったゲオルギー・ジューコフ元帥だ。彼は、第2軍団司令部の監視地点にいた。

解放されたシュリッセリブルク

 赤軍は南下して、攻勢をさらに拡大しようしたが、結局失敗し、守勢に回らざるを得なくなった。だが、レニングラード市への直接の陸路は回復された。

 この作戦で3万3千人以上の赤軍兵士の命が犠牲になり、ドイツ軍は約1万2千人を失った。

 幅わずか 11 キロメートルの回廊で、「勝利の道」として知られるようになる鉄道の建設が直ちに始まった。早くも2 月 7 日に、食糧を載せた最初の列車がこの鉄路でレニングラードに到着した。

レニングラード方面軍とヴォルホフ方面軍の部隊の合流

 包囲が完全に解かれるまでにはなお1年を要したが、久しく苦難を嘗めてきたレニングラードは、ついに息を吹き返した。「封鎖は解けた。私たち長い間この日を待っていた。私たちはいつも必ずそうなると信じていた」。ラジオ放送で市民を鼓舞してきた詩人オリガ・ベルゴリツは、ラジオでレニングラード市民に語った。

 「私たちは空腹で黒ずみ、むくみ、敵にズタズタにされた路上で衰弱のために倒れた。解放の日が来るという信念だけが私たちを支えていた。そして、私たち一人一人が死に直面しつつ、防衛のために、私たちの街の生活のために働いた。そして誰もが『清算』の日が来ること、私たちの軍隊が痛みをともないつつも封鎖を突破することを知っていた」 

レニングラード方面軍とヴォルホフ方面軍の部隊の合流

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