スターリングラード攻防戦から80年:第二次世界大戦のターニングポイントはこうして生じた

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 「英雄都市」の防衛者、赤軍の有能な指揮官、そして「愛国的なネズミ」さえも、スターリングラードでドイツ軍に勝利するのに貢献した。第二次世界大戦の全戦局の分水嶺となった戦いでそれがいかになされたかをご紹介しよう。

 100 万人以上の命を奪った人類史上最も凄惨な戦いは、第二次世界大戦全体の転換点となった。赤軍はこの戦いで主導権を握り、大戦が終わるまでそれを放さなかった。この勝利はどのようにして、またどれほどの犠牲を払って得られたのだろうか?

スターリングラードへの道

スターリングラード攻防戦

 1941 年末にモスクワ近郊で大敗を喫した後、ドイツ軍は、「バルバロッサ作戦」(ソ連侵攻作戦)の初期のように独ソ戦(大祖国戦争)のすべての戦線で同時に攻撃を行うことはもはやできず、南方に転進した。1942 年 4 月 5 日、総統アドルフ・ヒトラーは、夏季攻勢計画「ブラウ作戦」(「ブラウ」はドイツ語で「青」の意味)を承認した。この計画の主な目的は、コーカサスの豊富な油田を占領することだった。当時、コーカサスはソ連全体の石油の生産量の 70パーセント以上を占めていた。

 1942 年春、ドイツ軍はウクライナ東部に拠点を築き、夏の大攻勢に備えた。しかし、こうした「油田への遠征」は、側面からの確かな掩護なしには行えなった。そこで、ドイツ軍の一部は、スターリングラードの産業と輸送の拠点に向けて進んで、ドン川とヴォルガ川に沿って強固な陣地を築く必要があった。

マイコープの近くのドイツ軍

 皮肉なことに、これら一連の作戦計画の実施においては、赤軍自体が大きな役割を果たした。5 月 12 日、赤軍は、ハリコフ奪還を狙った攻勢を開始したが、20万人以上の将兵を失う惨敗に終わった。これにより、ソ連側の防御態勢が著しく弱まり、ドイツ軍はここでスターリングラードへの突破に成功する可能性が高まった。

 6 月 28 日、「ブラウ作戦」が始動した。ドイツ軍は、コーカサスとスターリングラードに向かって 2 方向に急進し、数百キロメートルを踏破して、赤軍の主力部隊から数万の部隊を切り離した。

スターリングラード、1937年

 そして、1942 年 8 月 23 日、スターリングラードは猛爆撃を受け、4 万人以上が死亡し、多数の建造物が廃墟と化した。戦争前のヴォルガ沿岸の有名な都市の景観はこのようだった

 その日にスターリングラード市を襲った悲劇は、2年前の爆撃で荒廃したイギリスのコヴェントリー市を彷彿とさせた。1944年にこの 2 都市が史上初の姉妹都市になった。

地上の地獄

ドイツ軍の兵士

 フリードリヒ・パウルス率いる第 6 軍とヘルマン・ホト麾下の第4装甲軍の猛攻を受けて、赤軍はスターリングラードに向かって後退していった。1942 年 9 月中旬、ドイツ軍は凄惨な市街戦に突入する。

 スターリングラードは次第に、ヒトラーにとって副次的な目標から主要な標的に変わっていった。独ソ双方は、「肉挽き器」にいよいよ大量の兵力、資材を投入し、この街は地上の真の地獄に変貌した。目撃者の回想が、その有様を生々しく伝えている。   

 スターリングラードは、ワシリー・チュイコフ中将(後に元帥)率いる第 62 軍が守っていた。チュイコフは、少人数の機動強襲グループを編成し、その戦果に賭けた。これらの小部隊は、「建物や地下にひそんでナチを待ち構え、近づいて来たら手榴弾を投げつけた」。あるいはまた、地下トンネルを通って敵の後方に侵入し、痛撃を与えた。

 もちろん、戦いは主に一兵卒の双肩に担われていた。「パブロフの家」の防衛や「リュドニコフの島」の包囲など、スターリングラードの戦いにおける英雄的なエピソードの詳細をこちらで読むことができる。たとえば、イワン・リュドニコフ大佐の第 138 歩兵師団は、ヴォルガ川から圧迫されて、三方から敵に囲まれつつ、「バリケード(バリカドイ)兵器工場」付近の小区画を 1 か月以上守り抜いた。

スターリングラードの防衛者

 スターリングラードの防衛者は、ドイツ軍のほかに、別の「見えない軍隊」とも戦わなければならなかった。コレラが街に蔓延する恐れがあったが、赤軍の衛生兵の驚異的な努力によって回避することができた。

転換点

 ドイツ軍は、スターリングラードの大部分を占領したが、厳冬期の前に市街を完全に制圧することはできなかった。ドイツの第6軍が依然として激しい市街戦を繰り広げていたとき、11 月 19 日に赤軍は突如として大反攻「ウラヌス作戦」を開始し、ドイツ軍の側面に壊滅的な打撃を与えた。その側面は、弱体なルーマニア軍がカバーしていた。

ドイツ軍

 破局を避けるべくドイツ軍は、速やかに予備部隊を同盟国の援助に投入した。驚くべきことに、この凄惨な時期にも、人の好奇心を刺激する風変わりなエピソードがあった。ドイツの第22装甲師団は、危殆に瀕したルーマニア第 3 軍を救出できなかった。その理由は…普通のネズミだ(戦車のエンジンをかけずにワラを被せていたら、電極をネズミにかじられた)。これらの「愛国的なげっ歯類」の偉業についてはこちらで。

 11 月 23 日、フリードリヒ・パウルスの第6軍の33万人に対する包囲網が完成した。しかし、ドイツ軍の置かれた状況は依然として破局的とは思われず、ヒトラーは次のように命じた。第 6 軍は市内に留まり、空路で物資を受け取り、援軍を待てと。

フリードリヒ・パウルス

 12 月 12 日、ドイツ軍の「冬の嵐作戦」が始まった。エーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥を司令官とした軍集団が救援に赴き、包囲を突破しようとした。この軍集団がどこまで迫ったか、そして最終的に失敗した理由はこちらで読める。

罠にかかった獣

 1943 年初めには、包囲下の第 6 軍の包囲を破る可能性は皆無になっていたが、第6軍の将兵の多くは、ヒトラーが約束を果たし、援軍を送ると信じていた。

 「冬の嵐作戦」に対し、赤軍は、ドン川周辺でドイツの同盟国、イタリアとルーマニアの部隊を破り、敵軍をスターリングラードから数百キロメートル後退させ、その後で完全包囲下の第 6 軍の組織的な殲滅に着手した。

解放されたスターリングラード、1943年1月

 1943 年 1 月 31 日夜、ソ連第 64 軍の第 38 自動車化狙撃師団の部隊がスターリングラードの中心にあるデパートの建物に突入し、あらゆる方向から封鎖した。

 2 日後の 2 月 2 日、最後に残っていたカール・シュトレッカー将軍の第 11 軍団が、スターリングラードのトラクター工場とバリケード(バリカドイ)工場」の近くで降伏した。この日、第二次世界大戦の帰趨を決した戦いが終わった。

 ヴォルガ沿岸の都市、スターリングラードにおける勝因として、赤軍兵士のヒロイズム、赤軍司令官の指揮、作戦能力の向上、およびドイツ軍司令部の多くの過ちなどが挙げられる。

 スターリングラード攻防戦におけるソ連の勝利の意義は巨大だ。ナチス・ドイツと枢軸国の軍事的、政治的同盟は甚大な打撃を被る一方、ヒトラーと戦う連合軍は士気を回復し、赤軍は大戦における戦略的主導権を握った。

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