ニコライ2世の子供たち

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 最後のロシア皇帝には5人の子供がいた。父と母とともに、子供らも1918年7月に銃殺された。後年、全員がロシア正教会によって聖人に列せられている。

 1894年11月、ニコライ2世はイギリスのヴィクトリア女王の孫と結婚した。彼女はドイツのヘッセン=ダルムシュタットのアリス皇女。ロシア正教に改宗してアレクサンドラ・フョードロヴナとなったが、家庭ではもっぱらアリックスと呼ばれた。

 婚礼のわずかひと月前に父親の皇帝アレクサンドル3世が死去したばかりだったため、豪華な式典は行われなかった。1896年5月にニコライとアレクサンドラの戴冠式が盛大に執り行われ、モスクワ中が祝った。

 しかし、戴冠式はホディンカの惨劇で記憶されることになってしまった。ホディンカ平原で貧民に記念品が配布されたが、大群衆の中で将棋倒しが発生、1000人以上の死者を出した。多くの人がこの出来事を凶兆ととらえた。

オリガ、タチヤナ、マリヤ、アナスタシア

 2人の間には4人の娘が生まれた。オリガ、タチヤナ、マリヤ、アナスタシアの4人は自分達を「OTMA」と呼んだ。そして、待望の後継者・アレクセイ皇太子も誕生する。

 皇帝夫婦は娘たちをかなり質素に教育したことが知られている。富によって甘やかされ、性格が歪むのを恐れたのだ。食事はごく普通で、寝所は軍隊式の折りたたみベッド。洋裁をやり、風呂用の水も自ら運んだ。

森でキノコ狩りをする皇女たち

 妹たちは姉のお下がりの服を着ることもあった。この教育方針は功を奏し、姉妹はみな謙虚な性格に育ち、一般人との交流も決して厭わなかった。アレクセイ皇太子も、控えめで温和な人柄だった。

 一方、姉妹は両親との関係においては率直で、恋愛事や、その他の女の子らしい話題も隠すことは無かった。

マリヤ、アナスタシア、タチヤナ、オリガ

 1917年の2月革命の後、皇帝とその家族はボルシェヴィキによって郊外のツァールスコエ・セローの宮殿に軟禁される。夏にはシベリアのトボリスクに移送され、1918年春、エカテリンブルクに移された。

1917年春、ツァールスコエ・セローで警護下にあるオリガ、アレクセイ、アナスタシア、タチヤナ、

 1918年7月17日深夜、家族全員と4人の従者たちは銃殺された。

 子どもたちのうち、誰一人結婚せず、子孫を残すことも無かった。2000年、ロシア正教会は彼らを受難者として列聖した。銃殺に際し、最年長は22歳、最年少は14歳の誕生日が間近だった。その短い生涯について、以下のようなことが知られている。

オリガ(1895-1918)

 「美しい金髪、大きな青い目と血色の良い顔色、上向きの鼻は陛下に似る」と、皇后の女官の一人は、ニコライとアレクサンドラの長女について描写している。

 オリガは婚礼の翌年に誕生した。皇帝は日記に、難産であった旨を書き残している:「かわいそうに!彼女(アレクサンドラ)は一日中ベッドに横たわり、ひどく苦しんでいた」。

 オリガという名はロマノフ家にとって伝統的な命名で、正教に帰依したロシア初の君主である聖オリガにちなんだものである。

 教師や廷臣はオリガについて、真にロシア的精神の女性であったと語っている。彼女は温和であったが、時には(特に少女時代は)激昂することもあった。その柔和な性格と外見は、特に父親に似ていた。

 また同時に、意志の強さと率直さ、際立った誠実さも併せ持っていた。長女オリガは最も思慮深く、かつ強情なまでに独立心に富んでいた。そして子供たちの中で唯一、両親の意向に真っ向から反対できたのも彼女だった。

 オリガは独りで読書をするのを好み、絵が巧みで、学問、とくに歴史に熱中した。皇帝は特にオリガと近しかったとされている。セルゲイ・ヴィッテ首相の回顧によれば、後継者となる男児がなかなか生まれない中、ニコライ2世はオリガに譲位することを検討していたという。

 運命の1918年、オリガは22歳になっていたが、いまだ独身であった。1912年、オリガとドミトリー・パヴロヴィチ大公との婚約発表が行われるはずだった。相思相愛であったが、直前になって皇后がこの縁談を破棄した。原因はドミトリーと「一家の友人」グリゴリー・ラスプーチンとの対立である。数年後、ドミトリー大公はラスプーチン暗殺に参加する。

 その後も、アレクサンドラ皇后は何度か花婿候補を退けた。やがて第一次世界大戦が勃発し、結婚どころではなくなった。オリガと後のルーマニア国王カロル2世との縁談が進められていたという情報もあるが、オリガ自身が困難な時期に家族を残して国外に移ることを拒んだという。

 第一次世界大戦中、オリガはツァルスコセリスキー病院で母や姉妹たちとともに看護婦として勤務した。この時期のオリガについて、ドミトリー・シャフ=バゴフという将校(オリガは日記で彼を「大変に感じが良い人」と書いている)との秘密のロマンスが噂された。しかし、高貴な姫が両親からそのような結婚を許可されることは決して無かったであろう。

病院にて、オリガとドミトリー・シャフ=バゴフ

 オリガは結婚に強く憧れ、母も相応しい婿のいないことを心配していた。皇帝一家がボルシェヴィキに銃殺されて後、オリガの教師だったピエール・ジリヤールは、オリガがルーマニアの王子と結婚を拒んだことを嘆いた。生き残れた可能性があったのだから。

タチヤナ (1897-1918)

 オリガの誕生から2年後、次女が生まれた。世継ぎの男子を期待していた皇帝夫婦は落胆したという。次女はロマノフ家には珍しい、タチヤナという名が付けられた。コンスタンチン大公が日記に記したところによれば、皇帝曰く、オリガとタチヤナという名はプーシキンの「エヴゲーニィ・オネーギン」にちなんだという。

 「濃い色の髪、顔色は悪く、幅広の目」のタチヤナは母親似で、同様に痩せて背が高かった(身長は約175cm)。

タチヤナと母・皇后

 性格は極めて温和で、「皇女殿下」という呼びかけに気兼ねするほどであった。姉のオリガに稀に見られた激高もタチヤナには見られず、姉と比べると遠慮がちだった。オリガが学問や芸術に発揮したような才覚は無かったものの、非常に辛抱強かった。かなり異なる姉妹だったが仲はたいへん良く、共に過ごす時間が多かった。

オリガとタチヤナ(右)

 1913年夏、タチヤナと皇室ヨット付きの将校ニコライ・ロジオノフとの間にちょっとしたロマンスがあった。下の写真は両者を仲直りさせる際に、ニコライ2世自身が撮影したという言い伝えが残っている。

タチヤナとニコライ・ロジオノフ中尉

 1914年初頭、セルビア国王ペータル1世はその子息アレクサンダルと、ニコライ2世の娘のうち誰かを結婚させたい意向を示し、アレクサンダルはタチヤナと面会もした。しかし、第一次世界大戦勃発により、結婚に関する交渉は進まなかった。

看護婦タチヤナ(左)とオリガ

 オリガと同様、タチヤナは看護婦として負傷した将校たちの世話をした。当然、皇女に憧れを抱く将校も多かった。タチヤナは若手将校のヴラジーミル・キクナッゼとの仲を噂された。

タチヤナとヴラジーミル・キクナッゼ

 もっとも、彼女が好意を寄せていたのは別の将校、ウランスキー連隊の親衛将校ドミトリー・マラマであることは、彼女の日記や手紙類から明らかである。マラマは皇后からも好印象を持たれ、皇后がニコライ2世に充てた手紙の中でも、彼は良い娘婿になる、外国の皇子たちとは違う、といった記述がある。

タチヤナとドミトリー・マラマ

 マラマはボリシェヴィキ相手に内戦を戦った。皇帝一家の銃殺を知った彼は死地を求めるようになり、1919年に赤軍に殺された。

マリヤ (1899-1918)

皇室ヨット「シュタンダルト」上のマリヤ

 アレクサンドラ皇后の3回目の懐妊は困難を伴い、さらに生まれたのが女児であったため皇后を落胆させた。「生まれたのが男児でなくて残念だった。かわいそうなアリックス!」と、ニコライ2世の妹クセニアは書き残している。

 「長身でふくよか、濃くて柔らかな眉、ロシア的な顔は広く、頬は鮮やかに赤みがかっていた」と、皇后の女官は彼女について書いている。マリヤは実にロシア的美女であった。常に生き生きとしており、陽気で愛想が良かった。多くの人が、彼女こそ姉妹で最も美人であると考えていた。彼女は一般の人々とも親しく話し、護衛の兵士たち全員の名前を覚え、彼らの生活に関心を寄せた。

マリヤ(左)とオリガ

 姉たちはマリヤを養子だと言ってからかうことがあり、マリヤが涙したこともあった。

 妹のアナスタシアが成長するにつれ非常に親密になり、「下のコンビ」と呼ばれるようになった(オリガとタチヤナは「上のコンビ」)。その一方、マリヤは腕白なアナスタシアの「支配下」にあり、彼女の各種のいたずらに従順に参加していた。2人ともテニスに興じ、蓄音機に合わせて踊ったりしていた。

左から:タチヤナ、将校ニコライ・ロジオノフ、マリヤ

 その紅潮した頬と人の良さに似合わないほど、彼女は長身(170cm)で身体頑健であった。彼女はたびたび、病身の弟を抱きかかえて運んであげていた(ある時などは戯れに自分の英語教師を持ち上げた)。

 マリヤは学問には特に関心を示さず、成績も並。外国語で身についたのは英語だけであった。

マリヤとアレクセイ

 ルーマニア皇子カロルはオリガに拒否された後、マリヤに求婚するが、ニコライ2世は彼女がまだ幼なすぎるとして退けた。

 マリヤは14歳の時、皇室ヨットを護衛する水雷艇の将校に恋をし、交際を認めてもらおうと父親に頼んだりもした。その将校が第一次大戦時に前線へ赴いた時は、自ら彼のためにシャツを縫った。

アナスタシア (1901-1918)

 「なんたる落胆であろう!4人目も女の子!」と、アナスタシアの誕生に際し皇室の親族たちは書いた。実際、後継者問題は重大であり、皇后は男児を産むためならいかなる神秘的儀式でも行う心積もりになっていたほどであった。

 外見上、アナスタシアは母親に生き写しだったが、身長はわずか156cmだった。非常に腕白かつ頑固で、よくしかめっ面をして見せ、いたずらを好み(その際は必ずお人好しの姉マリヤを誘った)、木登りをし、誰彼構わずからかった。音楽やダンス、シャレードなどの様々な遊戯を好んだ。

 第一次世界大戦中、姉妹のうち下の2人はまだ若年のため、病院には勤めなかった。しかし負傷した将校の慰問は行い、音読をしたり、カードゲームの相手をしたり、彼らのために肌着を縫うなどした。

マリヤとアナスタシア(右)

 革命後、子供達は全員がはしかに罹患し、頭髪が著しく脱落したため、みなが丸坊主になった。そのため、この頃の写真は生えかけの頭髪を隠すために頭部を覆った姿が多い。

はしかに罹患した後のアナスタシア、オリガ、アレクセイ、マリヤ、タチヤナ

 配流先でアナスタシアは太り始めたため、皇后はひどく心配し、「成長とともに良くなるといいが」とやきもきした。

 最後の日までアナスタシアは家族を楽しませ、気落ちさせまいとした。死の1か月前、アナスタシアは17歳になった。皇女たちは配流先で自らパンを焼き、家族そろって誕生日を祝った。銃殺に際し、アナスタシアは愛犬を連れていた。別の場所に移動させられると思っていたのだ。

トボリスクにて、オリガ、ニコライ、アナスタシア、タチヤナ、1918年冬

 アナスタシアはニコライ2世の子供達の中で最も有名になったと言えるだろう。彼女の名を詐称し「奇跡的に救出された皇女」の役割を演じたい者が多く出現したためである。そういった「伝説」によると、処刑に際し、密かにアナスタシアのドレスに縫いこまれていた宝石が銃弾を弾き、彼女は即死を免れた(そして生き延びた?)ということだ。しかし実際には、ボリシェヴィキは銃剣で全員にとどめを刺しており、生き残る可能性は無かった。彼女の遺体が確実には特定されていなかった事実も、アナスタシアの生存説を補強することになってしまった。

後列:マリヤ、アナスタシア、オリガ、座っているのはタチヤナ

 アナスタシアに関する伝説は大衆文化に広く浸透した(皇帝一家に同情する人達が、せめて1人でも助かっていて欲しいと望んだのも一因だろう)。中でも最も成功したのは、邪悪な悪霊ラスプーチンが登場するアニメ「アナスタシア」であろう。

アレクセイ (1904-1918)

 アレクサンドラ皇后の5回目の懐妊と思われたものは、想像妊娠だった。1901年末、彼女は妊娠したと信じ込んだが、迷信深かった彼女は医師を近づけず、1902年8月になってようやく、診察した医師が妊娠していないと結論付けた。このため、男児を渇望するあまり不安定だった皇后の精神状態はさらに悪化した。

 1904年、32歳の皇后はようやく待望の男児を出産した。しかし、不幸にも遺伝性の血友病が発覚した。血液の凝結に異常が見られる病気である。アレクサンドラはこの病気を祖母のヴィクトリア女王から受け継いでいた。

 男児が誕生して1年後、ニコライとアレクサンドラは「神の人」グリゴリー・ラスプーチンと出会った。信心深い皇后はラスプーチンに傾倒するようになる。アレクセイの病気の発作を抑えられるのは、ラスプーチンだけだったのだ(アレクサンドラのヒステリー発作も同様)。やがてラスプーチンは一家と親密になり、皇后、はては皇帝にも強い影響力を持つようになった。

 アレクサンドラ皇后とラスプーチンは愛人関係にある、ラスプーチンは皇女たちの寝室に自由に出入りできるなど、驚くべき噂が流れた。こういった噂には何の証拠も無いが、一家が揃ってラスプーチンを強く信頼し、その死に動揺したのは事実である。

皇后、子供達、家庭教師の女性とともに映るラスプーチン。1908年、ツァールスコエ・セロー

 アレクセイの病は経過が悪く、わずかな怪我でも内出血を誘発し、ある時は鼻血により命の危険があるほどだった。病気のために関節が痛み、時には自力で歩行できないほどだったため、「傅役」の士官が付き従い、アレクセイを運んだ。

アレクセイと傅役の士官アンドレイ・ジェレヴェニコ

 病気のため、アレクセイは内気な子供だった。両親からは素朴さを受け継ぎ、軍服を好んだ。食事には、兵士たちと同じ「シチーとカーシャ(ロシア風のキャベツスープと粥)」を頼んだ。第一次大戦中、アレクセイ(公式には、コサック隊の長官で士官だった)は数回、父と共に前線を訪問している。

ニコライ2世とアレクセイ皇太子、1916年、軍の駐屯地にて

 母と姉たち(とくにマリヤ)はアレクセイをとても愛した。病弱ではあったものの、皇帝とその周囲は皇太子について、皇位を継ぐに相応しい意志の強さと気質を見出していた。

タチヤナとアレクセイ、監視下のツァールスコエ・セローにて

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