ロシアの農村で恐れられていたのは誰か?

Russia Beyond (Photo: Public domain; Vladimir Makovsky; Grigory Myasoedov)
 いや、この記事はレーシー(森の精)やキキーモラ(女の姿をした妖怪)についてではない。ロシアの農村に住む人間たちの中で恐れられていたのは誰か、という話だ。

 熟練の職人や手工業者は革命前のロシアの農村において欠かせない存在であったのだが、それだけではなく、彼らはよからぬ評判もとっていた。昔は、どろどろした粘土が固く丈夫な器になったり、ぼこぼこした土や鉱石から均質な金属製品ができたりすることはまさに奇跡のようであり、その奇跡を生み出す者はさながら魔法使いのごとく思われていた。

 また、粉挽き職人は川の側の水車小屋や、畑の中の風車小屋で生活し、鍛冶職人もまた、炉の火から村全体が火事になるのを避けるため、村から少し離れたところに住み着いた。以上のような職人たちの性質から、このロシアの農村でとりわけ異質な存在である彼らが、農民たちの間で恐れられるようになったのだ。

粉挽き職人

ヴォジャノーイ(水の精)に出会った粉挽き職人

 昔からロシア人は粉挽き職人は悪魔と関わりがあるとみなしていた。風車はレーシー(森の精の、水車はヴォジャノーイ(水の精)の力を借りて動かしていると考えられていたからだ。職人たち自身は、風車の羽根が風で折れるのは「レーシーの怒り」のせいだと考えていた。また、水車や風車には小悪魔が棲み着いていて、職人たちは彼らに「贈り物」をしなければならないとも考えられていた。川の水位が上がったり、車輪が噛んだり壊れたりしないように、職人たちは川にパン切れや煙草を投げ入れ、祭りの日にはウォッカを注いだりした。

 供物や生贄を捧げる儀式についての証言がある。「水車の車輪が回らないとき、職人はご馳走を手にヴォジャノーイ(水の精)のもとを訪れたものだと村の老人たちは言っていました」1980年にウラルの住民ミハイル・マジトフはこう語っている。「生きた鶏に石をくくりつけて川に放り込むと、水車はまた回り始めるとも言っていました」。

ヴァシーリー・ポレーノフ、「古い水車」

 「水車小屋の建築には水の精に捧げる供物がつきものであった。水の精は水車の守護者となるからであり、これは新しい住居に移る際、ドモヴォーイ(家の精)のご利益を求めて供物を捧げるのと同様だ」と『ロシアの文化伝統における水の精への供物』と題された記事でアンナ・ペトケヴィチは書いている。

 水死者たちも同様の「供物」だとみなされた。水車小屋が大変危険な場所だったことは言うまでもなく、職人たちは水車の動力装置や車輪の修理の際、大怪我をして身体の一部を失うこともあった。溺れ死んでしまうことも珍しくなかった。そのような犠牲者たちは、水車がうまく動く代償として悪魔に「差し出された」のだと考えられた。そう考えるほどまでに水車は暮らしと収入を支える重要なものだった。

 「父は、水車小屋を建てるときは、水の精にいくつかの命を差し出す約束をしていたと言っていました」1976年にアラパエフスク市に住む70歳の農婦カバコヴァはこう語っている。「もしその約束が果たされなければ、水の精は家畜を攫うのです。父は言いました。水車小屋が建てられたとき、12の命を差し出す約束がなされ、そして実際12人が溺れて亡くなったのです」。もちろん、誰も生贄を捧げるためにわざと人を沈めたわけではないが、「代わり」の犠牲は、たいてい、みな黒い色の犬や雌羊、雄鶏などの動物だった。

 このような職人たちの習わしが、魔法使いという評判を彼らに与えることになった。その住居である水車小屋や風車小屋は、村の娘たちや既婚女性、特に子どもたちにとって禁じられた場所だった。そして職人たち自身もその不吉な評判を裏切ることはなかった。「ある粉挽き職人はいつもわたしたちの耳に噛み付いて驚かしたんです!」歴史家のタチヤナ・シェペンスカヤはヤロスラヴリ州の女性の言葉を引いている。「わたしはまだほんの娘でした。そのおじいちゃんは、そんなふうな、とんでもない人でしたよ。わたしたちが仕事の邪魔をして彼をうんざりさせたとでも言うのでしょうか? みんなの耳に噛み付いたんですよ」

ペチカ職人

ロシアのペチカ職人

 ペチカは、農民の家での生活の中心として、多くの迷信や習わしと結びついている。ペチカは病気を治すと考えられていたし、生まれたばかりの子牛にペチカを「紹介する」ため、子牛たちはペチカの側に連れて来られた。またペチカの灰は軟膏や煎じ薬に欠かせないものだった。そんなわけで、本職のペチカ職人はひどく尊敬されていたのだが、ではなぜ恐れられたのか?

 煉瓦を積んでペチカを作るのは簡単なことではない。くすぶって燃えが悪かったり、風がヒューヒューと唸ってはいけないし、家の中の暖気をよく保たなければならない。職人によるペチカ作りは安いものではなかったので、容赦がないと評判が立った。あとで痛い目に遭わないようにペチカ職人とはけんかをしてはいけない、とも言われていた。

 不満をもつペチカ職人は家の主人を「こらしめる」こともあったのだ。彼らに結局けちったことをひどく後悔させるためだ。作ったペチカに少し細工をして多少「欠陥品にする」こともあった。だがその欠陥は初めは見えないようにさえした。いくつかの煉瓦の下に木片を忍ばせ、できた隙間から風が入ることで暖まりを悪くしたり、煙突部分に歪んだ煉瓦を使って、ペチカが家の中で煙を出すようにしたりした。挙句の果てには、いちばんひどいのは「悪魔を棲まわせる」ことや「キキーモラを呼び入れる」ことだった。

 「キキーモラ」は、ペチカの煙突を作る際、空の瓶を口を外側に向けてはめ込んで「呼び入れられた」(もちろん瓶は見えないようにした)。十分に強い風が部屋のある一定の隅から吹くと、恐ろしい唸り声を上げるのだった。「悪魔を住まわせる」ためには、水銀を染み込ませたガチョウの羽根や、針と水銀を入れたガラスの小瓶が使われた。目立たないように「サプライズ」を煙突に埋め込んだペチカ職人は、ペチカが問題なく燃えるのを見せ、家の主人と食卓を共にし(ペチカ職人には必ず「煙のもてなし」をする、つまり彼らにご馳走する習慣があった)、家を後にした。最初の夜にはもうペチカはヒューヒュー唸り始め、ぎしぎしと音を立ててきしみ(水銀が熱せられたり冷やされたりすることから)、家人は落ち着いて寝ることができなかった。

鍛冶職人 

鍛冶職人

 現代のロシア人の男たちがきわめて「男らしい」問題を話し合うために村のガレージや工場(こうば)の側に集まるとしたら、革命前の農村でそのような「クラブ」の役割を果たしていたのは鍛冶場だ。鍛冶職人は馬の蹄鉄や、あらゆる金属製の道具の修理を受け持っていて、彼らの炉や金槌の扱いに人々は「金属の魔法使い」を見ていた。

 鍛冶職人が馬の蹄鉄を作っていたので、家族が収穫した食料で腹を満たすことができるかどうかは鍛冶屋にかかっていた。そしてもちろん、村の新郎新婦のための結婚指輪を作っていたのも彼らだったので、鍛冶職人の姿は、若い2人の固い絆とゆるぎない幸せというイメージと結びついていた。鍛冶屋は文字どおり若者たちの結婚を「鍛えて」いたのだ。また鍛冶職人は、意中の相手に自分を惚れさせる「まじない」に頻繁に登場する。歴史家のタチヤナ・シェペンスカヤは事典「男と女:ロシアの文化伝統における男性的なものと女性的なもの」の中の鍛冶職人に関する記事でまじないの文句の一つの例を引いている。「鍛冶屋が立派な旦那のために鉄を鍛えるように、鉄が沸き立ち、グツグツと煮えたぎり、鋼とくっつき溶け合うように、神の僕であるお前(女性のこと)も(その意中の男と)くっつき溶け合い、未来永劫離れぬように」。また指輪の他にも鍛冶職人は「幸せの」蹄鉄も作っていた(家の中に幸せを「集める」ため、蹄鉄はドアの上に開口部を上にして掛けられた)。

 鍛冶場は酒盛りや若者の通過儀礼が行われる場であり、また人間関係構築の場でもあった。「鍛冶場では男たちがいつも酒を酌み交わし、しょっちゅう喧嘩をしていました」とヴォログダ州ザレシエ村の女性は回想している。女性や、特に子どもたちにとっては、村から少し離れた場所にあることも含めて、鍛冶場は近付いてはいけないところだった(鍛冶場は火事の危険性を考慮して村の外れに建てられた)。

 鍛冶職人には、祭儀的な場の主として、不思議な力が与えられていた。彼らは魔女を見分けることができると考えられていたのだ。そして、言い伝えでは、悪魔は魔女が姿を変えた馬に乗っていた。ポシェホニエ市に住む1901年生まれのある女性はこう語っている「あるとき、馬に蹄鉄を作りに来た男がいました。鍛冶屋は男に蹄鉄を作ってやったが、その男は「ありがとう」と言わず、ただ笑い出し、そのまま去って行ったのです。鍛冶屋は『馬ではなくて、婆さんの足に蹄鉄を作ってやったよ。男が去るとき「ありがとう」と言わなかったのは、つまり奴は人間ではなかったということだ』と言っていました」。(訳注:露語で「ありがとう」は「スパシーボ」。この言葉は元来「神よ、彼を救い給え(神の御加護を)」という意味であり、悪魔はこの言葉を口にすることはできない)

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