ソ連社会では、あからさまな贅沢をすることには及び腰だった。共産主義イデオロギーによれば、贅沢な生活と過剰な富は、ブルジョアの悪徳だったからだ。
しかし皮肉なことに、共産党、軍の高官、科学者、俳優、作家等、ソ連社会のエリートにとっては、個人のダーチャ(別荘)、自家用車、海浜リゾートへの有料旅行など、贅沢な暮らしを送ることは、まあふつうのことだった。とはいえ、そういう贅沢は、たとえお金があっても簡単に買うことはできず、社会的地位が必要だった。
一般市民にとって、豪華なアイテムと言えば、ふつうは防寒着、高品質の家具その他の家庭用品だった。しかし、それらを買うのは容易なことではなかった。家具やテレビを購入する順番が来るまで、数か月間待たなければならないこともあった。
我々は、こうしたステータス・アイテムを求める悪戦苦闘を詳しく書いた、有名なソビエト市民の回想を集めてみた。
ソ連のオーディオファンは、主に「ラジオグラム」(ラジオとレコードプレーヤーを組み合わせた巨大な木箱)で音楽を聴いていたが、こんなかさばるオーディオシステムを持ち歩くことはできなかった。
最初のポータブルレコードプレーヤー「ロマンティカ」は、1965年に登場した。これは珍しい製品で、165ルーブルもした(当時の平均月収は約125ルーブル)。店舗で見つけるのも難しかった。
これに先立って1960年に、ウクライナの首都キエフでレコードプレーヤー「ドニエプル」が製造されていたが、なんと1,250ルーブルもしたと、地質学者ボリス・ヴロンスキーは書いている。 「キエフでは、そのうちの3~4点だけが売りに出され、すぐに売り切れた」
しかし、ソ連製レコードプレーヤーにはしばしば技術的な問題があったので、実際に贅沢品に「数えられた」のは外国製プレーヤーだけだった。ヴロンスキーは1967年に友人を訪ねたときのことをこう振り返っている。
「彼は美しく、設備の整ったアパートにくわえ、日本のナショナル(現パナソニック)のステレオのトランジスターラジオを持っている。彼は、自分でそれを購入し、270ルーブル払った」
1968年、まだ若かった俳優ワレリー・ゾロトゥーヒンは、チケットなしで出し物を見ようと、モスクワの有名な劇場の、関係者専用の入口で待ち構えていた。
「私は、シープスキン・コートを着た連中が入り口に近づいてくるのを見た。彼らは『大物』だった」。ゾロトゥーヒンはこう書いている。
確かに、シープスキン・コートは手に入れるのが難しい衣類だった。給料ひと月分以上することもあり、しかも店ではすぐに買えなかった。
「シープスキン・コート、あらゆる趣味の革のコート、多種多様な婦人用の衣類と靴…」。アナトリー・チェルニャエフは1977年にブダペストを訪れたときのことを書いている。彼は当時、党の高官だったが、それでも、ヨーロッパのこの国の多彩な商品に感銘を受けた。
シンガーソングライター兼俳優のウラジーミル・ヴィソツキーは、欧州を頻繁に訪れ、外国車を所有していたが、その彼でさえ、妻のためにユーゴスラビアでシープスキン・コートを手に入れたとき、大いに誇りに思ったという。女優アーラ・デミドワは1969年にそう書いている。
高品質の「シューバ」(毛皮のロングコート)ともなると、月給2~3か月分がふっ飛びかねなかった。学校の教員レオニード・リプキンは、1972年のことを書いている。彼の母親が700ルーブルでシューバを買うつもりで、それが学校の先生の給料6~7人分に相当すると…。
「今、私には、アパートのほかに、高級家具、チェコのマホガニーの家具セット、冷蔵庫、ピアノ、秘書、洗濯機がある」。俳優ワレリー・ゾロトゥーヒンは、モスクワで大きな成功を収めた後、1968年にこう書いている。普通の人々がすぐには手に入れられない、これらすべてのモノを、彼が誇りに思っていたのは明らかだ。
ソ連の動物学者エリヴィラ・フィリポヴィチは、自分と夫が天文学的な数字の価格、1,150ルーブルの、10ピースからなる家具セットを手に入れるつもりだ、と同年に書いている。しかし、それを購入するにはまず、モスクワで居住登録する必要があった。そこで二人は、自分らのために組み立てられたセットを買うために、「自分たちを登録してくれ」と友人に頼まなければならなかった!
くどいようだが、家具セットは非常に品薄だったため、人々は何ヶ月も、順番待ちリストで自分たちの番が来るのを待っていた。
「5月になると、キッチンセット『タチアーナ』が手に入るだろう。(リストの)私たちの順番は1790番目だからね」。1974年4月にイワン・セレズニョフはこう記している。「最近、この順番待ちの1,000人目が家具セットを受け取ったそうだ」
まともな食器棚でさえ――つまり、磨かれた合板の棚にガラスがはまった、ありふれたタイプだが――、1950年代~1980年代にはリッチな品とみなされていた。そして、こういう食器棚の中には、当然、食器一式が置かれるべきで、これが「裕福な」ソ連式アパートには、もう一つの不可欠な品だった。
「ジーナおばさんは、私に食器セットをくれた。とてもきれいだ。ママは、このセットが私の結婚の持参金になると言った」。若いエレーナ・トルベンコワは1970年に書いている。
そう、食器セット(陶器またはクリスタルの)は、一般のソ連国民にとって「持参金」になり得たが、それだけではない。1981年、作家アレクサンドル・マルコフは、食器セットをもらった。…50歳の誕生日に、ソ連作家同盟からだ。
クリスタルの食器セットは、ソ連のうぶで無教養な人にとっては、お気に入りの「資産形成」の方法だった(この買い物は主に女性が行った)。ソ連の女性たちはそれらをあまりに買いまくったので、いまだにロシアの「蚤の市」では、この品の買い手がいないほどだ。
自家用車は、ほとんどのソ連国民にとって最高の夢だった。しかし、ソ連のふつうのエンジニアは、月給が125~150ルーブルだから、標準型のラーダを買うには、2~3年間(!)働かなければならない。ジャーナリストのヴィクトル・ヴァルクノフの記憶によると、1978年にセダンの「ジグリ」の値段は5,500ルーブルだった。
その購入のために、バルクノフは、自分の職場から書面で許可をもらう必要があり、さらに、ウォッカのボトル2本、ソーセージ2本、魚の缶詰2つを「袖の下」として役人に贈らなければならなかった。結局、彼はどうにか「モスクヴィッチ」(あまり快適でない車)を手に入れたが、価格は6,700ルーブルもした!
* * *
このような状況において、ソ連共産党の当局者がそのポストと社会的地位を揺るぎなく堅持できたのは不思議ではない。作家マルク・ポポフスキーの考えによれば、絶えず食料と商品が不足した状況は、実は国家システムの「バグ」ではなく、逆にその重要な機能の一つだった!
「この慢性的な品不足は、実は当局に不利な状況ではなく、その基礎をなしていた!たとえば、明日、店がキャビア、靴、車などでいっぱいになると想像してみてほしい。
ここに、ソ連共産党中央委員会の職員がいるとしよう。彼は、馬鹿げた仕事をだらだらやっていて、重い頭と胃病をかかえて、毎日書類の雪崩に四苦八苦している。そういう彼が、もし転職したとしても、同じキャビア、同じシープスキンのコート、同じ車を手に入れられるとしたら、どうだろうか?相変わらず、中央委員会や閣僚会議の席に連なる気がするだろうか?
店にはいろんな品物があふれていると知ったうえで、なおかつ今の仕事に甘んじる人は多いだろうか――しかも現在の…教育水準の高さを考えれば?否!」
「そのためにこそ品不足、モノ不足なのだ。キャビアはあるにはあるが、特権階級のためだけだ。君も少し欲しいって?どうぞ、どうぞ!だが、上司に胡麻をすらなければならない。
シープスキン・コートが欲しい?海外出張したい?どうぞ!だが、上司の言うことを聞いて、ちゃんと付け届けしなければならない。
こうした秩序が無期限に維持されるために、品不足の状態が必要なのだ。こういう状態は、よく考え抜かれていて、絶えずつくり出されている。だから、わが国の発展は、刺激されることなく、抑制されているわけだ」
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