ロストフ国立音楽劇場の舞台で、日本人プリンシパル、伊藤鞠さんは、『白鳥の湖』の主役、オデットとオディールのほか、『ジゼル』、『エスメラルダ』、『雪娘』、『シンデレラ』などの同名の主役を踊る。花のように繊細な彼女は、ステージ上では完全に無重力であるかのように見える。
ところが、すべての事の発端は、かつて日本人のバレエ教師が鞠さんに、バレリーナになろうなどと思わぬほうがよい、と助言したことだった。
鞠さんの両親は、ディズニーランドで踊っていた。「母はミニーマウスで小柄。父は背が高くて、グーフィーだった」 。鞠さんは、3歳半からバレエクラスで踊り、同時にジャズダンスやタップダンスにも挑戦していた。
「2004年に、ミュージカル『アニー』に出演しました。私の大好きなミュージカルです!母と私は3年連続でオーディションを受けに行き、ついに私は採用されました。新しい体験で、すばらしかった。でも、バレエほど難しくはありません。私のバレエの先生は、私の演技を見てこう言いました。『バレエはあなたには向いていない。このほうがあなたには合っているね』。そのときのことを鞠さんは思い返す。「でも、私はそうは思わなかった。たとえすごく難しくても、バレエが私の将来の仕事だと分かっていた」
18歳のときに鞠さんは、ロシアのワガノワ・バレエ・アカデミーの年次選考会に参加した。彼女は、あまり希望はもたずに試験に臨んだ。
「あまり期待しすぎると、ひどく落ち込むことになる。気楽に受ければ、かえって結果が良いこともあります。…選考会にはたくさんの人がいたので、母と私は、初日に『さようなら』を言われるだろうと思ってました。でも、私は採用されたんです」。
鞠さんは、サンクトペテルブルクへの留学に招待された6人のうちの1人となった。
「バレエを真剣に勉強したい人はロシアに行く必要があります。ロシアの教師は最高です…。もちろん、外国に行くのは怖かったです。私はまだ18歳で、スカイプはまだありませんでした。電話するには、国際通話カードを使うしかなかった。でも、私たちは、こんなチャンスは二度とないことが分かっていました」
こうして、2008年に鞠さんは初めてロシアを訪れた。
しかし、鞠さんは、すぐにサンクトペテルブルクが好きになったわけではない。「たしかに、この街はとても美しいですけどね」と彼女は認めるが。
「肝心なのは、私が先生に恵まれたことです。先生はまるで母親のようでした。彼女はいつでも日本の女子全員、『私の猫ちゃんたち』を招待してくれました。そして、私たち皆にご馳走してくれました」
最初の冬休みの間、生徒たちは皆、日本に帰ったが、鞠さんはロシアに残らなければならなかった。
「そのとき母は、1年間は辛抱すべきだと言いました」と彼女は思い出す。「もう号泣しました。でも、その後、私にはロシア人の女友だち、ララができました。サンクトペテルブルクの街を散歩したり、写真を撮ったり、とても楽しかったです。そして、少しずつロシア語が分かるようになりました」
鞠さんによると、いちばん厄介だったのはロシア語だそうだ。「日本では、会話中に絶えずうなずきますが、私もその癖があります。そのために最初は、私がすべてを理解し同意していると、皆から思われていました。『はい、はい、いいですよ』と、私が言っていると思ったんですね。でも実際には、何が起こっているのかチンプンカンプンでした。すべてがそのまま過ぎていくだけです。とくに時間を理解するのが難しくて、しょっちゅう間違えていました。でもガールフレンドができると、すぐに言葉の練習にもなったので、万事うまくいくようになりました」。今では、鞠さんはロシア語を流暢に話す。
ワガノワ・アカデミーの卒業後、鞠さんは、ロシア北部のペトロザヴォーツクの劇場に招かれた。それから、サンクトペテルブルクの巡回劇場でも踊った。
「でも、ツアーは大変ですし、疲れます。毎日スーツケースに荷物を詰めなければなりませんし、自分の家もありません。ですから、ロストフ(ロストフ・ナ・ドヌ)に招かれたとき、私はOKしました」。鞠さんは説明する。(*ロストフ・ナ・ドヌは、ロシア南部の都市(人口は約114万人)。伊藤鞠さんは、ロストフ国立音楽劇場のプリンシパルとして所属している)
「こんな街があったなんて知りませんでした。私たちはいつも北部にいましたから。ロシアにこんな南方があることすら知りませんでした。それに、日本ではロシアはいつも寒いと思われています」
サンクトペテルブルクになじんだ後では、鞠さんには、この街はそれほど美しくは見えなかったが、とても興味深く思われたという。
「中心部から少し離れるだけで、突然、まったく違った小さな家がいくつも現れます。そして、半分地面に埋もれているものさえあります。多種多様で、誰もが自分のスタイルで、自分の好きなように建てています…」
これは2014年のことで、以来、鞠さんはロストフ・ナ・ドヌに10年近く住んでいる。「ロストフにやって来たのは幸運でした。ここで、踊りたい役はほぼすべて踊りました。私はもうここで知られていますし、観客はとても温かいです」。彼女はこう語る。
「なぜ私はまだここにいるのか?まず、気候が日本とよく似ています。ここが寒くなるということは、日本も寒くなるということ。ですから、私は快適に過ごしています。果物もたくさんありますね。東京では果物がとても高価です。あるとき、母が来て、こう言いました。『あなたのところには何でもあるじゃない。私が荷物を送る必要はないわね」。鞠さんは笑う。
日本から彼女の母親は、お米を送ってくれている。「ここでは、まだいいのが見つからない。匂いが違う。炊き上がったときに甘い香りがしなければ。それに、ご飯はもちもちしていなければね!」
鞠さんは、ロシアでの食生活について、次のように語っている。「自分で作ると、やっぱりちょっと日本料理風になってしまうんです。私は何にでも醤油を加えますから。夫のアルセニーは、スープが大好きですが、私はそうではありません。日本では、スープよりもご飯をよく食べます。ところが、ロシアでは、まずスープ、それからメインディッシュ…。それでも、私は、ボルシチも、ロシアの前菜サラダ『毛皮のコートを着たニシン』も、もう料理できるようになりました」
鞠さんにはロシア人の夫がいる。彼もバレエダンサーだ。
「そもそもの始まりは、サンクトペテルブルク時代です。私たちは寮に住んでいました。寮ではとても楽しくて、みんなが大家族のようです。しかも、とても便利で、朝目が覚めたら、そのままリハーサルに行きました。そこへアルセニーがやって来ました。彼は年上で、もう劇場に所属して踊っていました。彼はとても控えめで内気です。その彼が、あるとき私にこう言いました。『2月14日のオペレッタに来てくれないかな』。私は、彼が何かを企んでいるな、とすぐにピンときました。オペレッタに行くと、隣の席が空いていました。そしてパフォーマンスの最後に、アーティストの一人がお話ししたいことがあります、と誰かがマイクで言いました。その後、セーニャ(*アルセニーの愛称)はステージに上がり、『愛する鞠、今までありがとう。すごく愛しているよ』と言いました。私は、おっ、今これからプロポーズされるのか、と思いました」。鞠さんは、二人のなれそめを思い出しながら笑う。
「それから私は出て行って、彼を抱きしめました。彼にとってそれがどんなに困難だったか私は知っています。プロポーズはその後でした」
鞠さんによると、日本の結婚生活では、妻が「外」での仕事を減らして、家でより多くの時間を過ごすのが一般的だという。「私たちは違います。共働きです。そして、何事もいっしょにやろうとしています」。彼女はこう語る。
ロシア人男性の行動の特徴について、鞠さんは次のように指摘する。
「ロシアでは、ドアはいつでも誰かが押さえてくれる――後から来る人に勢いよくぶつからないように。また、男性が先に行ってドアを開け、女性を中に通す。よく言われることですが、レディーファーストです。ベビーカーを階段で持ち上げるときは、誰かその場に居合わせた男性が手伝ってくれます。日本では決してそうではありません」
鞠さんは、夫のアルセニーさんといっしょに娘を育てている。「娘は誰とロシア語を話し、誰と日本語で話すべきかを知っています。私とは日本語で話すことが多いですね…」。鞠さんは言う。
ロシアでの15年間におよぶ生活の中で、鞠さんの性格は変化しないわけにはいかなかった。「たとえば、日本人はとても勤勉ですが、私は怠け者です――少しばかりね。横になってリラックスするのが好きです。仕事と休息を切り替えることが私にとって大事なんです。でも、集中すべきときは思い切り集中する」
さまざまな状況に対する態度も変わった。「日本では時間厳守がとても重要ですが、ここでは、遅刻する人が多いです」と鞠さん。
「でも、以前は、どこかでじーっと立って人を待ちながら、そわそわしていたとしたら、今では、『まあいいや、ちょっとどこかに寄ってみよう』と思います。また、日本では、散歩に行くときは、どこで食事をするか、何時に食べるか、すべて正確に打ち合わせておく必要があります。私もかつてそうでした。でも、今では、『どこで食べようか?』と聞かれたら、まあ、いいじゃない。とにかく会って、成り行きにまかせようよ、と私は言います。もうあまり先のことは考えません。だいじょうぶ、すべて何とかなるよ、と言うだけですね」
鞠さんによると、日本人のロシアに関する知識は、ロシア人の日本に関するそれよりもさらに乏しいという。「ウォッカ、クマ、マトリョーシカ…くらいかな。また、私は気がついたのですが、ロシア人は日本人よりも読書量が多いです。ロシアでは、私と同世代の人たちは、歴史や文学についてよく知っています。日本では、レフ・トルストイのことすら知らないでしょう。私はロシアに住んでいるから知っていますが、読んだことはありません。そして、ロシアにはこれほど多種多様な都市があることを知っている人はほとんどいません!‥」
*オリジナルの記事は、雑誌『国民』にロシア語で掲載された。ライターは、オリガ・マイデリマン。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。