ニコライ2世の一家

アンナ・ヴィルボア(右)はアレクサンドラ・フョードロヴナ皇后の侍女、親友そして回顧録の著者だった。/ ツァールスコエ・セロー、アレクサンドラ・フョードロヴナとアンナ・ヴィルボア。

アンナ・ヴィルボア(右)はアレクサンドラ・フョードロヴナ皇后の侍女、親友そして回顧録の著者だった。/ ツァールスコエ・セロー、アレクサンドラ・フョードロヴナとアンナ・ヴィルボア。

Press photo
1904年1月撮影。アンナ・ヴィルボアは、舞踏会やアレクサンドラ・フョードロヴナ皇后の外出を取り仕切ることがその務めである侍女に任命された。皇后の親友になった後の彼女は、長年を王家の側で過ごし、多くの旅行に同伴し、王家の行事に同席した。それに加えて、彼女は長年ロマノフ家の写真家でもあった。彼女のカメラは、この王家の祝典と日常生活の両方を捉えた。何枚もの写真のアルバムが現存しており、王家の生活の様子を物語っている。/ニコライ2世、アレクサンドロフスキー宮殿の子供の翼棟にて。
これらの写真は威厳や儀礼の堅苦しさからかけ離れた、ロマノフ家の日常的な生活の様子をとらえている。子供たちがバドミントンで遊んでいる。皇后はアナスタシア皇女に読み聞かせている.../脚を怪我しているアレクセイ皇太子、アレクサンドロフスキー宮殿の子供の翼棟。
ニコライ2世とアレクサンドラ・フョードロヴナの間には、オリガ皇女、タチアナ皇女、マリア皇女、アナスタシア皇女の4人の娘がおり、息子はアレクセイ皇太子の1人がいた。/タチアナ大公女、ニコライ二世の娘。給電のバルコニーで。
皇帝の妻であるアレクサンドラ・フョードロヴナ。ウラン連隊の皇后用制服。1884年から1917年まで、皇后は同連隊の連隊長だった。
皇帝の唯一の息子は遺伝により血友病に罹っていた。これは、体が血液凝固の制御をなかなかできないため、小さなかすり傷でも致命的な結果を招いてしまうのだ。/アレクセイ皇太子が病気に苦しんでいる時期の皇后
マリア皇女とアナスタシア皇女(左)は娘の中でもいちばん年齢的に若く、親しみやすかった。アナスタシアに勧められて、マリアはテニスをプレーし始めた。テニスはその当時ポピュラーになりつつあった。この女の子たちはジョークの調子にのりすぎて、絵画やその他の貴重な品を宮殿の壁から落としてしまったりした。
子供たちの中ではオリガがいちばんの年長だった。アンナ・ヴィルボアは、彼女のことを次のように回想した。「オリガ・ニコラエヴナは明らかに賢明で才能があったが、ときに怠け者だったので、勉強は真面目にとらえなかった。彼女は強い意志力の持ち主だったが、まったくもって正直で率直だった。そのような意味では、彼女は母親似だった」/オリガ皇女(右)とアレクサンドラ・フョードロヴナ皇后。
タチアナ大公女の枕元に座るアレクサンドラ・フョードロヴナ。タチアナ・ニコラエヴナはチフスに罹っており、アレクサンドロフスキー宮殿の子供の翼棟で横になっている。1913年の冬。
アレクサンドル3世の一番下の娘で、ニコライ2世の妹にあたるオリガ(左から3番目)は、ボリシェビキの手から逃れることに成功した数少ないロマノフ家メンバーの一人である。彼女はクリミアで、母、夫と子供たちと共に、幽閉同様の生活を送った。/娘たち、妹のオリガ、将校、侍女と共にスキーの前に立つニコライ2世。
アレクサンドロフスキー宮殿の西側にあたる、白塔の近くの稜堡周辺で、そりに興じる。この敷地はモスクワから680キロ、サンクトペテルブルクからは25キロ離れたプーシキン(旧ツァールスコエ・セロー)の近くにある。
ニコライ2世の一家は、そのほとんどの時間をアレクサンドロフスキー宮殿(ツァールスコエ・セロー)かペーテルゴフで過ごした。夏には、彼らはクリミア半島のリヴァディア宮殿で休暇を過ごした。ツァーリは毎年、ヨットのスタンダード号でも休暇を過ごし、毎回2週間かけてフィンランド湾とバルト海を航海した。/父と息子。コサック近衛連隊の制服を着用した皇帝ニコライとアレクセイ。アレクサンドロフスキー宮殿のバルコニー。
アナスタシア皇女は、ロマノフ家の他のメンバーと共に1919年に射殺された。彼女の死後、何らかの奇跡によって死から救われたというアナスタシア皇女を自称する女性が30人も名乗り出てきた。彼女たちは、全員が偽物であることが暴かれた。/アナスタシア。両親の寝室で。ツァールスコエ・セロー、アレクサンドロフスキー宮殿。
4人の娘と1人の息子からなる子供たちは、共に皇室宮殿で育てられ、教育を受けた。/アナスタシアに本を読み聞かせるオリガ皇女(左)。
ロマノフ家の子供たち。アレクサンドロフスキー宮殿内の皇后のライラックの間執務室。
ニコライ2世の在位は、1894年11月1日から強制的に退位させられる1917年3月2日までだった。ニコライ2世の統治は、ロシアの経済的発展と、同時に拡大しつつあった社会政治的矛盾によって特徴づけることができ、それに基づく革命運動は、1905~1907年の革命 と、1917年の革命の火種となった。また、それにより日露戦争が勃発し、第一次世界大戦にロシアが参戦することにもなった。/ 敷地内で撮影されたロマノフ一家の肖像写真

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