ベルリン駐在のプラウダ特派員、マイ・ポドクリュチニコフの記事(11月9日付)=マルク・ボヤルスキイ撮影
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「ドイツ民主共和国における変化」。ベルリン駐在のプラウダ特派員、マイ・ポドクリュチニコフの短い記事(11月9日付)には、こんな見出しが付いていた。記事は東独政府の退陣を伝えるもので、同国閣僚会議の声明を引用していた。「我国を去る意向のすべての国民に告ぐ。自分の行動を再考せんことを」
注意深い読者なら、これらの数語から、東独国民が国外に出られるようになったという結論を引き出せたろう。これはつまり、ベルリンの壁はもはや存在しないということだ。
実際の状況への仄めかしは、11月11日付のプラウダにも見出せる。「訪問切り上げ」という短信で、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)のヘルムート・コール首相が、「東西ドイツの国境で起きたドラマティックな事件に関連し」、ポーランド訪問を一昼夜切り上げてボンに戻ったことが報じられていた。また同紙によれば、西独のボルフガング・シォイブレ内相は次のように声明した。「西独は今後、西独に移住したいすべてのドイツ人を受け入れる意向である」。ただし、それとともに内相は、東独国民にこう求めていた。「出国の決定は、真剣に熟考されたい。長期にわたり狭い居住面積で生活することを余儀なくされるだろうから」
11月10日以降も、プラウダは東西ドイツの政情を伝え続けるが、「壁」という言葉はどこにも見当たらなかった。
だがついに11月14日、モスコフスキー・コムソモーレツ紙が短信欄に、東独の国境警備軍への指令に関する記事を掲載した。命令は以下の通り。「国境警備軍は、ドイツ民主共和国と西独および西ベルリンとの国境において、新たな出入国規則を整然と遅滞なく実行するために、必要なあらゆる措置を講じなければならない」
とはいえ、コムソモリスカヤ・プラウダ、トルード、ソビエト・ロシア、モスクワ・ニュースの11月の紙面には、この類の記事は一切なかった。11月10日は「ソ連警察の日」だったので、各紙は、勇敢なる“法の番人”に関する記事で埋め尽くされていたが、ベルリンの壁の話はついに載らなかった。
すべてのプラウダ(真実)ではない…
一方、ソ連のテレビとラジオは、壁崩壊の日、わずか3行分のニュースを一回流しただけだった。
こうした状況を見ると、壁崩壊の報道を禁じる指令がソ連指導部から直接出されていたと推測される。我々はこの点を質すため、プラウダ紙編集部を訪れた。プラウダはとうに有力全国紙ではなくなっているとはいえ、当時から今日にいたるまで存続している。
同紙に勤めるニコライ・コジャノフ氏によると、今では1989年当時に働いていた記者はほとんど残っていないとのこと。同氏は、報道禁止命令の存在――ましてや書面でのそれ――は疑わしいと首をひねった。
「プラウダの記者は政治的な勘が常に鋭かった。ベルリンの壁崩壊の情報が流れたとき、彼らは当然、それを記事にするのを急がなかった。この事件は本質的に、社会主義陣営の崩壊を意味したから、それについて報じることは、崩壊の事実を認めることになる。多分、うちの記者たちは、何とかひとりでに丸く収まることを期待していたのだろう」。こうコジャノフ氏は推測した。
「プラウダのベルリン特派員がこの事件を知らなかったとは思えない」。コジャノフ氏は続ける。「こういう場合、記者は秘密の手紙を書く。それも編集部ではなく、ソ連共産党中央委員会宛に。そのなかで、実際の状況を事細かに伝える。その後で初めて、党官僚が、プラウダが何をどのように書くべきか決める訳だ」
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