ロシア北部のこの珠玉の建築は、1714年に建立されている。伝説によると、職人は一本の釘も使わずに、斧一丁だけで仕上げた。仕事を終えた後、誰もそれを真似できないように、斧をオネガ湖に投げ捨てたという。
8面体の多層構造で、22の玉ねぎ型ドームを持つ。もう一つの教会、鐘楼、そして塀とともに、墓地付き教会の建築群をなす。1990年、建築群はユネスコの世界遺産に登録された。
歴史の展開次第では、現在のロシアの首都は、モスクワではなくウラジーミルだったかもしれない。そして、ロシアのランドマークの聖堂は、「赤の広場」の聖ワシリイ大聖堂ではなく、これだったかも。このリストに含まれるもう一つのユネスコ世界遺産、ウスペンスキー大聖堂(生神女就寝大聖堂)は、モスクワの建設者ユーリー・ドルゴルーキーの息子、ウラジーミル公アンドレイ・ボゴリュブスキーにより1158年に建立された。
長い歴史のなかで、この大聖堂にはいろんなことが起きた。例えば、13世紀初め、ロシアに侵攻したモンゴル軍は大聖堂に火を放ち、そこに隠れていたウラジーミル大公の妻と娘たちが死んだ。 19世紀には修復中に、14世紀後半から15世紀初めにかけて生きた名高いイコン画家、アンドレイ・ルブリョフのフレスコ画が偶然発見されている。
これも、アンドレイ・ボゴリュブスキー時代の教会だ。これは彼の権勢の、そしてウラジーミル・スーズダリ大公国の全盛期の最も有名な象徴だろう。画家・修復師であるイーゴリ・グラバリによれば、ポクロヴァ・ナ・ネルリ教会は、かつてロシアで建立された最も完璧な聖堂だという。
この白亜の聖堂は、ネルリ川とクリャジマ川の合流地点の近くにある。そばに水流があるために、聖堂の周りの牧草地はしばしば冠水するが、聖堂は美しく丘の上にそびえている。
イワン雷帝(4世)の末子、ドミトリーが不審な死を遂げた事件には、多くの伝説がまとわりついている。最も人口に膾炙しているのは、ドミトリーは帝位の唯一の相続人であったので、権力を渇望するボリス・ゴドゥノフの命令で殺害されたというものだ(兄フョードル1世は虚弱で実子がいなかった)。
ドミトリーが死んだ場所――ウグリチのクレムリンが建つヴォルガ河畔――には、木造の教会が建てられ、1692年には石造のそれが建立された。内部には、18世紀に制作されたすばらしい壁画があり、ドミトリーとその殺害の場面を描いている。
この素晴らしい聖堂は、クリミア半島南部のフォロス海岸の崖上に建っている。1892年の建立。クリミアへの途次、皇帝一家が列車事故に巻き込まれたが奇跡的に助かったことを記念している。皇帝アレクサンドル3世は、救助隊が来るまで崩れ落ちた車両の屋根を肩で支え続けた。
ロシア革命後、教会は閉鎖され、略奪に遭った。第二次世界大戦中には、ソ連軍の部隊がここに拠点を置いていたため、ナチスの攻撃により聖堂は大きな被害を受けた。ソ連時代は、何度か聖堂を撤去しようとし、最初はサナトリウムを、その後は国の別荘を建てようとする計画があったが、聖堂は奇跡的に生き残る。ペレストロイカ後、勤行のために再開された。
ロシアで最もユニークな教会の一つ。かつてはモスクワの貴族が所有する大邸宅ドゥブロヴィツィの一部をなしていた。現在、母屋にはレストランと戸籍登録課が入っている。だから、周辺はいつも新婚夫婦でにぎわい、壮麗な教会を背景にポーズをとっている。
教会は17世紀の終わりに、無名のイタリア人建築家らによって建てられた。彼らを招いたのは、当時の所有者で、ピョートル1世(大帝)の扶育官、ゴリーツィン公爵であった。ソ連時代には鐘楼が爆破され、教会そのものは最初は博物館となり、その後閉鎖された。
眩い空色のニコリスキー海軍大聖堂は、女帝エリザヴェータ時代のバロック様式による。ロシア初の水兵のための大聖堂だ。18世紀半ばに、皇帝直属の海軍部隊の聖堂として建立された。部隊の兵舎がここの近くにあった。
ソ連時代もこの聖堂は閉鎖されず、レニングラード包囲戦の困難極まる飢餓の時代にも、ここでは勤行が行われていた。かの有名な女流詩人アンナ・アフマートワの葬儀もここで執り行われた。今日にいたるまで、死亡した水兵と潜水艦乗組員のための葬儀が行われている。
この大聖堂は、皇帝パーヴェル1世の命令で着工し、彼の死後の1811年に完成した。彼は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂に似た建築を望んでおり、自ら建築設計を選んだ。これは、「主教座教会」、すなわちこの都市の主要な聖堂であり、宮廷の儀式が行われる。
96本の柱列は、ネフスキー通りに向かって扇形に広がっている。建物は、自然石のみで外装が施されている。すなわち、凝灰岩、カレリアの大理石、斑岩、碧玉などが使用されている。この時代の最高の画家、彫刻家――カルル・ブリュローフ、ウラジーミル・ボロヴィコフスキーら――が装飾を手がけた。
聖堂は当時の人々にとって、対仏戦争の勝利を連想するものであった。ナポレオンの「大陸軍」から奪った戦利品は、聖堂内に保存されている。祖国戦争(ナポレオンのロシア遠征)の主たる英雄、ミハイル・クトゥーゾフ元帥もここに葬られている。
ソ連時代は、聖堂のなかに宗教と無神論の歴史に関する博物館が置かれ、聖骸は屋根裏に隠された。ユニークな銀製の聖障(イコノスタス)は、鋳直されたため、失われてしまった。勤行が再開されたのは1990年代のことだ。
この大聖堂は、1818年、皇帝アレクサンドル1世のもとで着工し、完成したのは1858年。既にアレクサンドル2世の治世になってからだ。フランス人宮廷建築家オーギュスト・ド・モンフェランの設計による。彼は、文字通り大聖堂建設に命を捧げ、竣工の数ヶ月前に死去した。
レニングラード包囲戦中は、他の博物館、美術館の貴重な展示物がこの大聖堂に持ち込まれた。 地元民は、ドイツの航空機がこの高い聖堂(高さ101.5m)を、攻撃の際に位置関係の目安にしており、爆破しないことを知っていた。聖イサアク大聖堂の柱廊上の展望台は、街で最も高いものの一つで、観光の大人気スポットだ。
この大聖堂は、カザン・ハン国に対する勝利を記念して、イワン雷帝により1555~1561年に建てられた。その正式の名称「堀の生神女庇護大聖堂」は、聖母の庇護(ポクロフ)にちなんでいる。大聖堂は実は9つの教会を束ねており、そのうちの一つだけがモスクワの佯狂者(聖愚者)ワシリイに捧げられている。伝説によると、イワン雷帝は、かくも美しい聖堂を建てた建築家の目をつぶすよう命じた。彼が自分の意匠を繰り返すことも、それを超えることもできぬようにと。
1812年、フランス軍は、モスクワから撤退した際に聖堂を爆破しようとしたが、その暇はなかった。1920年代後半には、今度はボリシェヴィキ政権が破壊を決定したが、建築家・修復師ピョートル・バラノフスキーが聖堂保護に立ち上がり、独裁者ヨシフ・スターリンに電報を送ることまでした。その結果、大聖堂はそのまま残されたが、バラノフスキーは、反ソ活動のかどで弾圧を受けた。
ソ連時代には、聖堂内に歴史・建築博物館があり、1990年代には勤行を再開。ユネスコ世界遺産に登録された。そしてもちろん、ロシアの主要なシンボルとなっている。
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