赤の広場について知っておくべきすべてのこと(インフォグラフィック + 写真特集)

Alexey Druzhinin/Sputnik
 ロシアの主要な広場は歴史的、文化的事件の舞台であり、もっとも有名な名所が集中した場所であり、ショッピングを楽しめるところでもある。モスクワの赤の広場に関するすべてを一つの記事にまとめた。

赤の広場には何があるか?  

 赤の広場の歴史博物館側の入り口からクレムリン河岸通りまでの距離は700メートル強である。ゆっくり散策すると平均で15分から20分の距離だ。しかし、このコンパクトな敷地内に、世界中に知られるきわめて多くの名所が納まっている。 

 そんな名所の一つが、色鮮やかな複数の丸屋根を持つ聖ワシリー大聖堂である。1555年から1561年にかけて、モスクワのカザン汗国に対する勝利を記念して建てられた。大聖堂には謎や伝説がたくさんあるが、その多くが聖堂の建築とこれを作らせたイワン雷帝にまつわるものである。

 レーニン廟が赤の広場に現れた(もっとも当初作られたのは現在の形のものではなかった)のは、1924年のことである。かつてここにはイワン雷帝時代にはライオンが置かれていたアレヴィゾフ堀があった(詳しくはこちらからどうぞ)。

 しかしソ連の指導者がこの主要な広場に安置されて以来、レーニン廟は熱い議論の的となった。レーニン廟は今の場所にある限り、誰でも訪れることができる。いつ、いかにしてレーニン廟に行くべきかについてはこちらからどうぞ。

 レーニン廟のすぐ後にクレムリンの赤いレンガの壁ともっとも象徴的なスパスカヤ塔がある。 ロシア人は誰でも幼い頃から、このスパスカヤ塔の時計を知っている。というのも、この時計の鐘が新年の訪れを知らせるからである。ちなみに、この鐘は祝日のシンボルだけではない。ここに建てられて以来、スパスカヤ塔は小要塞、聖なる門、刑務所など多くの役割を果たしてきた。

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 もう一つの塔、ニコリスカヤ塔の近く、ちょうど聖ワシリー大聖堂の反対側にクレムリンのように歴史を感じさせる暗い赤色の印象的な建物がある。しかしこの外観に騙されてはいけない。実はこの建物は19世紀末に、赤の広場の景観に馴染むようネオロシア様式で作られたものである。現在、この建物は国立歴史博物館となっている。ここを訪れる価値がある5つの理由はこちらからどうぞ)。

 そして、赤の広場の4つ目の辺のところにあり、広場を四角形にしているところにあるのがロシアの主要な百貨店グムである。高級ブティックやお土産店がたくさんあり、非常に長い歴史を持っている。

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赤の広場はいつできたのか? 

16世期の赤の広場

 広場は少なくとも1434年から存在している。歴史研究家の間では今でも、市や集会のための場所となったこの広場が作られたものなのか、自然発生的にできたものなのかについて議論されている。かつてモスクワの要塞(のちにクレムリンと呼ばれるようになった)の壁のそばには巨大な草地が広がっていた。

 この要塞と都市が大きくなるにつれて、要塞の壁のそばに村ができた。そしてその村に市が必要となった。それからどうなったのかについてはこちらからどうぞ。

なぜ広場は「赤の」と呼ばれているのか? 

 もっともよく聞かれる答えは、クレムリンの赤い壁のそばにあるからというものだろう。しかしそうではない(しかも、クレムリンはいつでも赤かったわけではない)。しかも、「赤い」を意味する「クラースナヤ」という言葉が美しいという言葉からきている(古代ロシア語で「クラースナヤ」に「美しい」という意味もあった)という説も正しいものではない。

グラノヴィータヤ宮殿

 「赤の広場」と呼ばれるようになった本当の理由は、赤という色は伝統的に権力の色であり、モスクワの皇帝たちの主要な公式の会場であったグラノヴィータヤ宮殿に通じる階段が赤く塗られていたからである。皇帝は重要な行事の際には、赤いポーチに姿を見せた。ポーチから続いていた広場も「赤い広場」と呼ばれた。

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 赤の広場に埋葬されているのは誰か?

 モスクワの真ん中にある赤の広場に墓地があるというのは、真実からそう遠くはない。1920年から1985年にかけて、重要な共産党活動家、有名な革命家、またソ連にとって大きな意味のある人物がここに埋葬された。その中には、ヨシフ・スターリン、赤軍のゲオルギー・ジューコフ元帥、作家のマクシム・ゴーリキー、宇宙飛行士のユーリー・ガガーリン、ソ連の宇宙飛行学の父、セルゲイ・コロリョフなどがいる。またここには革命のために命を落とした兵士たちの集団墓地がある。

 広場側のクレムリンの壁の周囲には、200人ほどが埋葬されている。その中には西側の政治家も含まれている。

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赤の広場はいつでも今のような外観だったのか? 

1893〜1896年

 まったくそうではない。数世紀に及ぶ歴史が繰り広げられたこの場所がまったく同じであり続けられるわけがない。19世紀には広場に沿って交通機関が走り、路面電車の路線があったのである。スターリン時代の1930年代には、モスクワの再開発工事の中で大規模な改修工事が行われた。

 しかし、ソ連の計画が実現していたら、広場は一体どんな風になっていただろうか?!今よりもっと大きな巨大墓地を建設するために、50万平米の土地(ヴァチカン市国よりも大きい)のすべてを撤去するというアイデアなんてどうだろう。しかし、幸いにも、それは最高の案ではないと考える人がいた。 

赤の広場で何があったか?

17世紀後半の赤の広場

 中世以降、ここで集中的に文化や政治のイベントが行われた。皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチの時代、赤の広場では「家庭裁判」が行われていた(もし誰かが法を侵した場合、家族の中で説得しようとし、それでもうまくいかなければ広場に連れて行き、人々の前で同様のプロセスが行われた)。 

 1917年、赤の広場では、第一次世界大戦の前線に向かう兵士を見送る前の、多くの宗教儀式が行われた。

ウラジーミル・レーニンがトラックの上から国民に向けて演説する。1919年5月25日

 ボリシェヴィキの時代、広場は政治的集会の主な舞台となった。レーニンも、広場の木製の演台に立ち、群衆を前に演説を行った。また1945年、広場では、ナチスドイツの旗を叩きつけた第一回目の戦勝記念パレードが行われた。またスターリンの遺体を廟の中のレーニンと並べて安置する儀式もここで行われた(スターリンの告別式に際しての大量圧死事件についてはこちらから)。 

 ソ連時代後期からロシア時代に入っても、赤の広場は重要な声明を出すための舞台であり続けたが、しかし以前に比べ、そうしたことをするのははるかに難しくなった。

1959年5月1日(メーデー)のパレード

 最近ではブックフェアーやマーケットが開かれているほか、毎年、5月9日の勝利記念日には、軍事パレードが行われ、コンサートも開かれている。

 また冬には本物のおとぎ話の国になる。広場にはアイスリンクが作られ、周囲にはキラキラ輝く新年のガーランドが飾られる。また他でもない赤の広場から、ニコリスカヤ通りに出ることができる。これはもっとも美しく装飾され、明るく照明された歩行者天国である。

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