1919年末までに、ロシア人のほとんど全員が内戦の勝者がボリシェヴィキだと悟った。白軍はシベリアや極北、ペトログラード(現サンクトペテルブルク)近郊の各方面で惨敗していた。秋には、いわゆる南ロシア軍がモスクワ近郊でソビエト政権を倒す最後のチャンスを逃し、黒海沿岸へと敗走していた。
白軍の武器の引き渡し
Yakov Steinberg/ サンクトペテルブルク国立中央写真保管所/ russiainphoto.ruロシアが内戦で引き裂かれた数年間に、双方の残虐行為や暴力は頂点に達した。赤軍も白軍も至る所でテロを起こし、大勢の人々を銃殺刑や絞首刑に処した。「ブルジョワジーが我らを抹殺することを望まぬなら、今こそブルジョワジーを抹殺すべき時だ」と1918年8月31日のプラウダ紙は書いている。「我らの街から腐ったブルジョワジーを容赦なく一掃せねばならない。この連中は全員登録され、その中で革命階級の脅威となる者は抹殺されねばならない。(…)今後労働階級の賛歌となるのは憎悪と復讐の歌だ!」。このような状況では、敗者は容赦ない勝者の慈悲を期待して降伏するか、逃げるしかなかった。
ブルガリアへ出航する前にガリポリ半島で軍を見て回るA・P・クテーポフ将軍、1921年
Public domainロシアから亡命する動きは1917年に専制と帝政が倒れた直後から始まっていた。ロシアを去ったのは、西欧の大都市で不自由なく暮らしていける資産を持つ最も裕福な市民だった。ボリシェヴィキ革命が起こり、内戦が始まったことで、新政権に不満を持って亡命する人々の数は何倍にも増えた。白色運動の敗北が決定的になると、亡命する人々の流れはますます大規模になった。
ノヴォロシイスクからロシア人亡命者を運ぶアメリカ赤十字の船「スティーマー・サンガモン」号
Public domain1920年の2月から3月にかけて、敗北して士気を失った南ロシア軍の部隊が黒海の港から脱出した。赤軍が白軍のすぐ後ろに迫っていたため、ノヴォロシイスクでの避難船への乗り込みは混沌とパニックの中で無秩序に行われた。「汽船の席を巡る戦いが起こっていた。生きるか死ぬかの戦いだ。この恐ろしい日々には、街のあちこちで多くの人間ドラマが繰り広げられていた。危機を目の前にして、たくさんの凶暴な感情が外に流れ出し、むき出しの激情が良心を麻痺させ、人が人にとって残酷な敵と化していた」と軍を率いていたアントン・デニーキン将軍は回想している。
ノヴォロシイスクから脱出する白軍、1920年3月
Public domain白軍艦隊、イタリア、英国、フランスの船が、クリミアやトルコ、ギリシア、エジプトの港に3万人以上の兵士と民間人を運び出した。残りの数万人は避難させることができなかった。ボリシェヴィキが街を占領すると、そこに残っていた多くの白色コサックは、(自発的ないし強制的に)赤軍に動員されてポーランド戦線に送られた。南ロシア軍の将校らの運命はもっと悲惨だった。一部は銃殺され、一部は自殺した。「私にはドロズドフスキー連隊の大尉が思い出される。妻と3歳と5歳になる2人の子を連れて私の近くにいた」とノヴォロシイスクでの悲劇を目撃した人物は回想する。「十字を切り、彼らに接吻すると、彼は一人ずつ頭を撃ち抜く。妻に十字を切り、涙を浮かべて別れを告げる。撃たれた妻は倒れ、最後の弾は自身の頭に撃ち込む」。
クリミアは「ロシア軍」と改称した南ロシア軍の最後の砦となった。4万人の白衛軍が、その4倍の兵力を持つミハイル・フルンゼの赤軍南部戦線と対峙した。デニーキンに代わって司令官となったピョートル・ヴラーンゲリは、半島を死守することは不可能だと悟っていた。赤軍が1920年11月初めにペレコープ地峡の総攻撃に出る前に、彼は大規模な避難を準備するよう指示を出していた。
避難の様子、背景に写るのは英国の輸送船「リオ・ネグロ」号
Public domainノヴォロシイスクの場合と異なり、ヤルタ、フェオドシヤ、セヴァストポリ、エフパトリヤ、ケルチからの避難はスムーズに、そして多かれ少なかれ穏やかに行われた。「まず指摘しておきたいのは、パニックはなかったということだ」と半島の白軍政府のメンバー、ピョートル・ボブロフスキーは自身の手記「クリミア脱出」に綴っている。「かなり無秩序で、政府の強い指導も感じられなかった。それでも、無秩序で遅れもあったが、誰かが指示を出し、誰かが従い、避難は着実に進んだ」。赤軍が地峡の防御施設を突破して港に達した頃には、避難はすでに完了していた。
ノヴォロシイスクから「スティーマー・サンガモン」号に乗った亡命者の中には、孤児も30人いた
Public domain半島から白軍艦隊と三国協商の136隻の船に乗って13万人以上の兵士と民間人が脱出した。彼らが最初に滞在したのはイスタンブールで、そこから世界中に散っていった。「やらなかった仕事はない。洗濯係、道化師、写真の修整技師、玩具職人、食堂の皿洗い、ドーナツと『プレス・デュ・ソワール』の販売、手相占いや港の荷役、何でもやった」と兵卒のゲオルギー・フョードロフはトルコの首都での生活を振り返る。「私はこの巨大な異国の街で飢え死にしないよう、すがれるものすべてにしがみついていた」。
プロティ港のロシア人荷役労働者
Public domainモスクワとペトログラードから離れていた極東は、ロシアにおける反ソビエト政権運動の最後の拠点となった。ここがソビエト政権の手に落ちたのは1922年末のことだった。この地域から脱出した数万人の亡命者の大半は、当時軍閥時代(1916年-1928年)の只中にあった隣国の中国に落ち着いた。中国は、互いにいがみ合う軍閥の間で引き裂かれており、各軍閥が戦闘経験の豊富なプロの白軍将校を自陣に引き入れることに強い関心を持っていた。1931年に日本軍によって満州が占領されると、多くの白衛軍兵士が日本のために働いた。
内戦期間全体を通し、130~200万人がロシアから亡命した。亡命者の中には、新政権と折り合いを付ける覚悟をして間もなく帰国した者もいた。5~7年もすればボリシェヴィキ政権は倒れ、そうすれば安心して帰国して新ロシアを作れるだろうと期待する人々もいた。だが、その夢が叶うことはなかった。
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